2004年04月19日

ガキはセックスしてはいけないか(終)

結論。
「汝の欲するところを行え。それすなわち法とならん」(アレイスター・クロウリー)

確かに僕は言った。
「自分は『ガキがセックス? とんでもない!』派だ」と。
それは今でも変わらない。

ただ、はっきりしておきたい。僕の書いたことは確かに一見道徳的に見えたり、保守的に見えたりしたかもしれない。だが、注意して読んでもらえば分かる通り、僕が唯一決定的だと思っているのは、「その行為が自分にとってどういう意味を持つのか」ということなのである。

前回話したように、自分の行為の結果を、そのリスクも含めて、100%予測できる人間なんかいない。また、これは前回、理想的な話しかしなかったことなんだけども、理想に反して、予想外の結果を完全に受け入れることのできる人間も、やはりほとんどいないと思う。大人であろうと、どんなにすばらしい人間であろうと、人は予想外の結果を避けることはできないし、その衝撃から逃れるには、ニューエイジの「サトリ」でも開くしかない。

だったら自分の行動を律する指針はなんなのか?
善意の行為から最悪の結果が生じることが避けられないとしたら?

それは、「自分」しかないのだ。

ただ、身勝手に行動すればいいのでもない。
一時の衝動に任せるのが正しいわけでもない。
ただ、道徳的なあれやこれ、友人知人先輩親族のアドバイス、マスコミが伝える流行傾向常識、そういうものを完全に無視しろとは言わないが、いやむしろ、一度は一切合切を「飲み込んで」しまうことも大事だとは思うのだが、それとは別に、それらから一旦身を離して、深く、静かに、自分の中に耳をすまし、目を見張ること、全身を感じ、心の隅々を探り、自分の欲求を知ろうとすること、「よく考える」のではなく「よく知る」こと、そういうことに基づいた行為だけが、後悔と無縁の行動の指針を、人に与えてくれるのではないだろうか。決意や思考に頼るだけでは、人は結局自分の一部を置き去りにしたままで終わるのではないだろうか。そして自分の、一番深い欲求とは、思考や意志、感情、身体の状態、主義主張、そういった全てが一体である時にだけ、生じるものではないだろうか。

抽象的すぎるかもしれない。
「よくわかんねーよ」という人には、もう一度繰り返すしかない「やりたいようにやれ」と。あなたの「やりたい」ことがなんなのか、そんなこと、僕に教えられるわけがない。学校の先生も親も友達も雑誌もみのさんも星占いも教祖サマもコックリさんも教えてくれない。だってそれはあなたの問題なんだから。あなた自身が、深く、静かに、自分のことをつかもうとする行為、その果てにしか、あなたのやりたいことなんか決して見えてこない。そして、念のため繰り返すが、突出した欲求は、いつだって、あなたの他の部分を見失わせているはずなのだ。

だから、僕の「ガキがセックス? とんでもない!」という言葉は、決して「ガキ」をとめようとするものではない。第一だとしたら、こんな効果のない言い方なんかしない。
これは挑発で、挑戦なのだ。
「『やりてぇ!』っていうけど、オマエ、自分で自分の『やりたいこと』を知ってると思ってるわけ? けっ、百年早ぇよ」ということだ。

そして、「ガキ」と言う言葉が、単に年若い人をさす人ではないことは、ここまでくれば既に明らかだと思う。

多分、「人の振り見て云々」と言う以上の深い意味で、僕ら大人は、子どもの「「とんでもない!」と思える行為」について、深く考えてみる必要があるのではないか。僕らがしてるセックスがどんなものなのか。そこに無理はないのか。そこに忘れられたものはないのか。

そういう問いかけの果てに「大人」と「ガキ」の境界は消滅し、ただ「自分」と「他者」が立ち現れる。自分は他者と問題の一部を共有し、しかし自らの内にのみその答えを探らねばならない。そう言う場所で、初めて、人は思うだろう。

「汝の欲するところを行え。それすなわち法とならん」

posted by けいりん at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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