2006年02月23日

チョー能力、みたいな。

 もう終わって一ヶ月にもなろうという『仮面ライダー響鬼』の話から始めます。

 「完全新生」と銘打ち、一部ファンの熱狂的な支持を集めながら、なんらかの事情によりスタッフが総入れ替えとなり、前半と後半が全く別の作品としか思えないものになったことは、たった今「続きを読む」をクリックした方ならばよくご存じのことと思います。
 私もそれに関しては全く言いたいことがないとは言えないのですが、ネット上には私よりずっと筆が立つ、実行力とそれを支える情熱に恵まれた方が大勢いらっしゃいますから、敢えて屋上屋を重ねるような真似はしますまい。
 ただここでは、私が好きだったのは前半の『響鬼』だったということを知っておいていただければそれで充分です。だからといって「後半の方が好き」という人たちのことを否定する気はないし、それはそれで好みの問題というものだろうと思います。少なくとも今ここでその優劣について議論する気はありません。

 さて、前半『響鬼』の、歴代平成ライダーと異なる(『クウガ』を除く)大きな特徴とはなんだったでしょう。もちろんそれはひとつではなかった(そうでなくては「完全新生」などという謳い文句はただの飾りに過ぎないということになったでしょう)わけですが、私は、これまでの平成ライダーに共通していて、『響鬼』では大きく異なっていたものは、「主役級キャラの描き方」ではなかったかと思っています。

 どこか神経質そうな痩せぎすの若者たちが、深刻な顔で悩み、泣き、叫び、時には殴りあいながら話がすすんで行く。それが『響鬼』以前の平成ライダーにおけるドラマのあり方だったと思います。もちろんそこにはある種のドラマトゥルギーがあり、「悩めるヒーロー」は原作者石ノ森章太郎が描くヒーローの大きな特徴でもあったわけですから、そのような描き方を否定するつもりはないのですが、『響鬼』はそういう枠を大きく踏み越えていました。

 そこで描かれていたのは「大人」でした。揺るぎなく、自信に満ちて、しかし傲慢になることなく、自らの責任を果たす存在。それは主人公の響鬼に最も典型的に現れていましたし、その他の鬼にしても、形は違えど(特に轟鬼においてはしばしば部分的に未熟ではあれ)「大人」としての存在感を際立たせていたことにかわりはありませんでした。
 もう一方の主役と言える明日夢の視点が、その「大人ぶり」を強調します。1週間置きに何かに悩み、「響鬼さん」の言葉によって、あるいはその行動に寄って自ら解決を見いだして行く明日夢。
 つまり前半の「響鬼」とは、ヒーローの戦いの物語であると同時に、頼りになる大人に見守られて成長する少年の物語でもありました(後半にもその要素は受け継がれなかったわけではありませんが、大人の大人としての存在感と言う点において、前半と後半には決定的な断裂があります)。

 もちろんそれに対しては好き嫌いがあると思います。最初に述べた通り、ここでその是非について議論するつもりはありません。
 私は単に、「響鬼」におけるライダーたちが、「大人」として描かれていたと言う点を改めて指摘しておきたかっただけです。
 『響鬼』意外の平成ライダーについては、極めて簡単にですが、そのヒーロー像について先に述べておきました。それに対する共感や批判はひとまず置くとして、彼等はある意味で「悩めるヒーロー」でした。そしてその路線は、少なくとも間接的には、「仮面ライダー」を生み出した石ノ森章太郎の影響下にあると言っていいでしょう。直接その路線を踏襲しようとしたかどうかは議論の別れるところでしょうが、石ノ森章太郎が日本に変身ヒーローを定着させると同時に、「悩めるヒーロー」という方向付けにおいても大きな影響力を持っていたことは確かですし、従来の平成ライダーのあり方も、そういった流れの中にあると考えることはそれほど的外れではないと思います。
 では、石ノ森章太郎の元祖『仮面ライダー』における「悩み」とは、一体どういうものだったでしょうか。

 一言でいうならば、それは「異形であること」の悩みでした。
 「怪人」と同様の肉体を背負いながら、人間の脳=心を持つがゆえに人間の側に立って戦う苦悩。人のために戦いながらも、自分自身は「人ならぬもの」であるがゆえに、決して人としてのぬくもりを取り戻すことはないのだという悲哀。それは初代ライダーを特徴付けた「悩み」であると同時に、他の石ノ森作品や、時期を同じくする他の作者による変身ヒーローものにも通じるテーマだったのではないでしょうか。

 このような形での「悩み」も、平成ライダーは様々な形で受け継いでいました。
 『アギト』は人類の新たな可能性とはいいながらも、現在の人類にとっては「異形」でしかないという部分もテーマのひとつとして盛り込んでいましたし、ファイズは「オルフェノク」という異形を設定することでライダーをいわば「二重の異形」として描きました。先ほどは一連の平成ライダーの流れとは別のものとした、最初の平成ライダーである『クウガ』でも、その終盤において、主人公が的の首魁と同様の存在になりかねないという危機を通して、同様の悩みを描き、ドラマを盛り上げていました。

 こうして各例を見てみると、この悩み、異形としての悩みとは、「邪悪な(もうしくは邪悪であるかもしれない)力を持つことへの恐れ」の可視化だったのではないかと思えて来ます。
 初代ライダーは頭部の改造痕を隠すため仮面を被ります。しかしそれはむしろ自らを「完全な異形」として完成させる行為であるはずです。それゆえ、「醜い改造痕」は単に異形の証として隠されたのではありえません。それは「ショッカーに改造された」という事実、自らの邪悪な出自を示すものとしてこそ隠されなければならなかったのではないでしょうか。人のためにショッカーと戦う己の力が、他でもないショッカーから与えられたという事実。正義のための力を邪悪な源から得ているというそのことこそ、最も隠蔽されなければならないものの正体であったように、私には思えるのです。
 そして同時に、それは永井豪が『マジンガーZ』『デビルマン』などで語った、悪魔的なカタルシスとどこかで通じているようにも感じられます。なぜならばそこで描かれるのは(「神にも悪魔にもなれる」とは言いながらも)、常に暴走の恐れをはらんだ「持てる力を解放したい」という欲望そのものであり、本質的には破壊的、反社会的な快楽であるからです。それを「仮面」の下に隠し、あくまでも正義の道を貫くライダーは、実は人間を焼き殺すデビルマンと裏表の存在なのかもしれず、『ファイズ』は明らかにそれを意識した作品でした。
 そして永井豪作品が描くカタルシスが性的なリビドーの気配を濃厚に漂わせているように、ライダーの「異形としての悩み」も、思春期の心身の大きな変化への恐れ、制御できない情動の懊悩として読み取る事が可能です。
 自分が見も知らぬものへと変わって行く恐れ。世界が敵意に満ちたものとして立ち現れてくる不安。まさに異形としての変化を遂げる自らのファルスと、夜な夜なそこから欲望を吐き出すことへの罪悪感。それを誇示したい気持ちと隠蔽したい気持ちの交錯。やり場のないいらだち、自らを作った存在=親に対する盲目的な敵意。
 ライダーの悩みとは、そう言ったもののメタファーではなかったでしょうか。

 ここで『響鬼』へと話を戻しましょう。
 こちらで分析されている通り、少なくとも前半の『響鬼』には、「異形としての悩み」の気配は希薄でした。

 結局、物語中で存在意義を自身に問うていたのは主に「少年・明日夢」の役目になっていましたが、惜しいことに彼は「人ならざる者」ではありませんでした。「人ならざる者」と「存在意義を問い苦悩する者」とが、完全に分離されているのです。これをテーマの変奏と考えるか、単純な役割の分担と考えるか、或いは全く別なテーマと考えるかは人それぞれでしょう。ただ確かなのは、前半響鬼は少なくとも表立って「人ならざる者自身の苦悩」を描こうとした物語ではなかったのだろう、ということです。


 これは非常に的を射た論だとは思いますが、歴代ライダーの悩みを上のように捉えるなら、明日夢が「存在意義を自信に問う」役割を持つことで、「人ならざる者自身の苦悩」を描く必要ががなくなった理由が明らかになると思います。
 そしてまた、思春期の過程を「自らの大きな変化=変身」と捉えるならば、それを「成長」として己の糧とし乗り越えた果てに「鬼=大人」があるという風に、従来のライダーの悩みをいわば止揚した存在として『響鬼』という悩まないライダーを捉えることができるでしょう。明日夢の物語と「変身ヒーロー」としての物語は、このような形できれいにつながるのだと思います。

 さて、思春期のメタファーとして描かれる存在といえばそれは別に変身ヒーローだけではなく、ここでようやく表題につながるわけなのですが、今回はもう長くなったので続きは次回と言うことで。
posted by けいりん at 16:46| Comment(2) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ややや、古い記事にTBが、一体これは何事か、と思いましたら、こちらで関連記事を起こされていたのですな。記事中でも引用して頂き、ありがとうございます。

「思春期のメタファー」というご意見には目から鱗が落ちた思いです。なるほどなー。まだまだ「掘り起こせるお宝」はいっぱい眠っているのね。嬉しいことです。

ちなみに、まだ序盤しか見ていないクウガにおいても、「人ならざる者」と「苦悩」とは分離しようとしている気配が見受けられ、これは高寺プロデューサの基本スタンスなのかも、とか思っておりますがどうでしょうか。

次の記事に書かれるであろう「続き」も楽しみにお待ちしております。
Posted by てりぃ at 2006年02月25日 10:40
 や、どうもです。
 真空管的な脳みそをしているゆえ、ネット上の議論になかなかリアルタイムでは参加できないのですが、ヒントをもらって独立した記事を書くようなことはできるわけで、このたびも古い記事にどうかと思ったんですが、まあ一応言及&トラバさせていただきました。楽しんでいただけたのなら幸いです。

 本文中でもさらっと触れていますが、『クウガ』では後半(34話以降、くらいかな)に「人でないものになっていく」ことへの恐れがテーマのひとつになってきますので、どうぞ期待して見すすめて下さい。
Posted by けいりん at 2006年02月28日 16:14
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仮面ライダー響鬼 四十六之巻「極める鬼道」
Excerpt:  今日も含めて残り3回となった響鬼。どのようなものになろうとも、最後まで見届ける覚悟は固まっています。現在の鑑賞状況は、やっぱし細かいとこやストーリーの方向性が少なからず
Weblog: Old Dancer's BLOG
Tracked: 2006-02-25 10:31
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