2006年03月12日

チョー能力、みたいな(2)

 こちらの続き。 前回は、『仮面ライダー』シリーズに見られる「異形としての悩み」が思春期の懊悩のメタファーではないかと言うこと、その中にあって『響鬼』は思春期を生きるもう一人の主役として明日夢を配置することで、主役の響鬼を「大人」として描いていたのではないかと言う話をしました。

 ところで「思春期のメタファー」として語られるものには、「異形」とは似て異なる、もうひとつのテーマが存在します。
 「超能力者」というのがそれ。

 例えばこのジャンルの代表作と言えるシオドア・スタージョン『人間以上』に描かれる子どもたち。彼らはそれぞれ超能力を持ちつつも、一方で様々な欠陥(発育不全、白痴など)を持つがゆえに、一人一人では単なる半端者であり、役立たずですが、皆が集まり協力することで恐るべき力を持ったミュータントとしての真価を発揮します。
 この「集合」と言う部分に目を向ければ、さまざまな思想的背景を読み込みたくなるのも無理はないのですが、私はむしろ、彼らが、単独で社会に晒された時には単なる「厄介者」でしかない、ということこそ重要だと考えます。
 世界をゆるがす力を持ちながら、社会からは黙殺され、あるいは押しのけられる存在。現実にはどうあれ、ここには思春期の子どもたちが一度は陥る、傲慢と自負、社会に対する不信と敵意が象徴されてはいないでしょうか。「自分はこんなに優れているのになぜ大人は認めてくれないのだ」という想いは、この時期に子どもを訪れる苛立ちの、ひとつの典型的なパターンであるように思います。

 そういえば、多くの「超能力もの」において、超能力者とは「社会から迫害される存在」でした。ヴァン・ヴォークト『スラン』はその代表例でしょうし、「社会」のメタファーとしてなんらかの組織を設定したものとしては、筒井康隆『七瀬再び』、恩田陸『劫尽童女』などがあります。

 それとは少し違った角度から超能力者を描いたものに、ゼナ・ヘンダースン『ピープル』シリーズ等がありますが、世間からはかくれて暮らし、仲間を探し求め、故郷への憧憬をつのらせる彼等の姿もまた、別の意味で思春期のメタファー足り得ているように思えます。何よりも己の力を基本的に秘密にしているところなどは、社会に対して直接コミットできないことや、「大人にはどうせ分かってもらえない」という基本的なスタンスなどとして読み替えることが可能でしょう。

 さらに、平井和正『幻魔大戦』の初期(あるいは石ノ森章太郎によるコミック版)では、主人公・東丈は、あからさまに思春期特有の傲慢、コンプレックス、屈折を備えた人物として描かれていますし、他の登場人物も、人種的偏見とプライドの固まりであるルナ王女、幼いながらいっぱしの犯罪者である黒人幼児ソニー・リンクス(コミック版ではサンボ)、権力欲の権化であり、後に人類を裏切ることになるドク・タイガーマンなど、ある種の幼なさ、思春期的と言うよりもむしろ幼児性といってしまいたくなるような性格の持ち主ばかりです。
 この「超能力者の幼児性」は、平井和正作品の作品に共通して描かれるものですが、この幼児性が思春期のただ中にある主人公東丈の「影」として描かれていると言う見方は、全てを言い当ててはいないものの、一つの角度からの事実ではあるでしょう。

※「幼児性」という言葉が出たついでに、どうしても触れておかなければならない作品について話をしておきます。大友克洋『童夢』『AKIRA』という2作がそれです。実はこれらの作品は、ここで述べている「思春期の少年=超能力者」という構図にはあてはまりせん。特に『童夢』は、超能力を、幼児(実際には「幼児の如き老人」というこれまたややこしい象徴性を持った存在ですが)の残酷性を拡大してみせる道具として描いており、それを思春期的な何ものかとしてとらえるのはさすがに強引と言うものです。『AKIRA』は鉄雄の年齢やその力の暴走、人類の進化の可能性など、いくつかの思春期的なものが感じられなくはありませんが、『童夢』の「幼児の如き老人」を裏返しにしたような、「老人の顔を持つ幼児」の描写など、キレイに枠に収めることはできない要素も多く、やはりこれは別の流れのうちに位置づけるべき作品と思えます。
 もちろんジャンルすべてをきれいに説明できるような一貫したテーマなどあるわけもなく、ここで述べていることも「一つの傾向」にすぎないのであって、前回を含め、ここで述べていることに多くの例外が存在するのは当然のことなのですが、この2作は「超能力もの」を語る上でどうしても触れておかなければならないと思われたため、あえて例外の一つとして取り上げておきました。

 
 石ノ森章太郎『イナズマン』は変身ヒーローものですが、同時に超能力者ものでもあります。この作品における変身は、超能力者が固定観念を打破し、自らの人としての限界を超えて、より大きな超能力を発揮できるようになるためのステップなのです。
 注目すべきは、この作品においては敵もまた超能力者であるということでしょう。ただしそれは超能力者ならぬ「旧人類」を滅ぼそうとする、いわば「悪の超能力者」なのですが。
 この構図を単純な「善vs悪」のドラマ、もしくはもう一歩進んで「良心vs邪心」のメタファーとしてとらえるならば、そこからは肝心のものが抜け落ちてしまうでしょう。注意すべきは、「悪の超能力者」バンバ一味と戦う「善の超能力者」自ら「少年同盟」と名乗っていることであり、その名に違わず、主人公イナズマン=風田サブロウも中学生である、と言うことです。
 思春期の少年が、自らの殻を破り、限界を超えて大きな力を手に入れる。これは前回お話しした『仮面ライダー響鬼』の、「明日夢少年の成長と、その先にあるものとしての「鬼」=大人」という解釈を思い出させるものですが、『イナズマン』においてはさらに、敵として「少年同盟」ではない  少年ではない=大人の超能力者が設定されていることにも注目すべきでしょう。『響鬼』の響鬼さんをはじめとする鬼たちは「善」の存在であり、明日夢はそこに自分の成長の彼方の目標として、まっすぐな憧れのみを抱くことができました。しかし『イナズマン』では、自分達と同じ力を持つ大人たちは、「悪」なのです。

 それについては二つの見方が可能です。一つは「大人なんて汚い!」というまさに思春期的な思い込み、既成の世界に対する盲目的な敵意の現れとしての見方。この見方では守るべき「旧人類」の存在が単なる背景としてしかとらえられなくなりますが、それすらも少年特有のエゴイスティックなヒロイズムの現れとして組み込むことは可能でしょう。つまり、彼等が敵意を持つ「世界」とはより具体的には「既存のシステムとそれを動かす力を持った大人」であり、システムに直接関与しない者たちはむしろ「守ってやるべき対象」となるのだ、ということです。

 もう一つの見方は、「自分は今殻を破り、新たな存在となろうとしているが、それは悪いことなのではないか、自分はその結果悪の存在になってしまうのではないか」という恐れの現れとして見る見方です。こちらの見方をとるならば、この作品はやはり一連の「変身ヒーローもの」の流れの中に位置づけられるでしょう。なぜなら前回お話しした通り、「自分の力は邪悪なものではないか」という恐れは、石ノ森作品をはじめとする多くの変身ヒーローものに共通する感情であるように思えるからです。

 この二つの捉え方の違いから、超能力ものと変身ヒーローもののテーマの違いが見えてきます。とはいってもそれは二つを完全に二分するものではない上、多くの例外を許す、いわば「全体の傾向」のようなものに過ぎないのですが。
 すなわち、変身ヒーローものがしばしば内省的で、自らの変化をどうとらえ、どう乗り越えていくかをテーマにしているのに対し、超能力ものは、強い力を持ってしまった自分が、世界とどうかかわっていくのかをテーマにしている(そしてそれはその出発点においてしばしば敵対的である)ということです。

 変身ヒーローものは、そのテーマの一つの回答として、『響鬼』という「大人」を提示しました。
 では、超能力ものには、どのような回答が与えられうるのでしょうか?
 思春期の傲慢、自負、社会への不信と敵意、それらはどのようにして乗り越えられうるのでしょうか?

 (つづく)
posted by けいりん at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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