2004年05月07日

ジェンダーフリー

最近「ジェンダーフリー」に対する風当たりが強いようなんだけど。

僕自身はジェンダーなんかクソだと思っている。
や、もちろん、僕自身にも、意識できたものもそうでないものも含めて、「社会的性差」は確かに存在するし、無意識にそれに沿った考え方や物言いをしてしまうことがあるのも事実。だけど、それは、「決して完全に消し去ることはできないけれども、常に意識的に乗り越えようとしてゆくべきもの」だと思っているし、だから「自分はどうなんだよ」といわれることを恐れず、堂々と断言できる。「ジェンダーなんてクソだ」と。

しかし。
一方で、「ジェンダーフリー」をうたった教育現場の取り組みの中には、ちょっと的を外しているな、と思うものもある。

具体例を挙げることはあえて避けるが、要点は二点だ。ジェンダーフリーは、人が性に関係なく、己の個性を発揮できることこそが重要なはずだ。はっきりいって、性差は全く存在しないわけではないと思う。ただ、ジェンダーバイアスが取り除かれるならば、先天的・不可避的な性差でさえも、単なる個性の一つとして、その他多くの「個性の違い」の中に埋没してしまうだろう。つまり「女だからおしとやか」ではなく、「おしとやかな人がいて、その人は女」というふうに。ところが、ジェンダーフリーを掲げて、この「個性差」そのものを無視するような試みがときどきある。それでは「無史できない差」としての性差は、反動も手伝ってかえって際立ってしまうのではないかと思うのだが。

もう一つの要点は、ジェンダー、セクシュアリティ、セックスの違いを明確にしないまの試みは、ある種の混乱をもたらさずにはおかない、ということ。もちろんこれら3つは密接に絡み合っていて、どれか一つだけを切り離して論じるのは不可能だ。しかし、だからこそ、ジェンダーフリーを目指す試みにおいては、あらかじめこれらの境界についてよく考えて自ら限界を設けるか、あるいはこれら全てについて熟慮する必要がある。簡単に言えばジェンダーフリーはフリーセックスではないし、子どものセクシュアリティ形成に影響を与えかねない試みは、ジェンダーフリーとは別の立場から考えてみる必要があると言うこと。

まあそんなわけで誤った試みによって僕が性差肯定派になる必要なんかは全然感じない。

「ジェンダーフリーは過激なフェミニストが作った用語」とおっしゃった人がいたらしいが、正直この言葉は何を言いたいのか意味不明である。僕はジェンダーとかジェンダーフリーとか言う用語の歴史についてはよく知らない。だからそれは本当に「過激なフェミニストがつくった用語」なのかもしれない。しかしだからそれがなんだと言うのか。そんなことをいったら近代的な「自由」や「平等」にしたって、かつては「過激な人文主義者」が唱えた概念に過ぎなかったはずだろうに。この発言には、「フェミニスト」と言う言葉につきまとう、それこそ「過激な」印象や、あるいは苦笑を呼ぶような印象、そういった正しい知識を伴わない印象を利用して、概念そのものをおとしめようという意図が感じられる。

断っておくけど、僕は別にフェミニズムを信奉していると言うわけではない。もちろんフェミニズムにもいろいろあって、その中には深く頷きたくなるものもあるし、そうでないものや反論を唱えたくなるものも含めて、フェミニズムは、僕自身や社会に根深く存在している病巣を白日の素に晒すためには非常に有効な装置だと思っている。けれどもどんなものであれ、「…イズム」を信奉するのはそれこそ僕の主義に反するのだ。

さて、それはそれとして。ジェンダーフリーを批判する人の中には、「性差は過激なフェミニストが言うような後天的なものではない」と主張する人がいる。たとえばテストステロンが男脳を作るとか、そういうやつね。先にも述べたように、僕自身はそれを全く否定していない。多分事実なんだろう。しかし、こういった根拠に基づきジェンダーフリーを批判する人は、多くの場合、科学的事実の誤認など問題にならないような決定的な過ちをおかしている。というのは、たとえば「テストステロンが男脳を作り、結果男は『男らしい』性格になる」という言葉は、ただ「そうなる」ということを記述したものに過ぎないのである。そこからは、倫理的な規定、「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」といった発言はでてきようがない。むしろ、それが100%全ての個体にあてはまる事実だとするならば、どんな育てられ方をしようと、男は男らしく、女は女らしくなるはずではないのか? そう思っている人が教育にジェンダーフリーが取り入れられた程度で何を慌てる必要があるのか? もし、後天的で恣意的な操作が、子どもの将来に好ましくない「歪み」を生じさせるというのであれば、同様に、科学的に立証された現実以上に、性差を固定化している可能性についても疑うべきだろう。そしてそれが好ましいか否かということは、もはや科学的事実でもなんでもなく、単なる価値観の問題なのである。

「古来の伝統」をもちだして「男らしさ、女らしさ」を称揚する人もいるが、もうこれはアホなんではないかと思う。そういう人は今すぐ言葉も文明も捨てて原始生活に戻りなさいね。まあ言葉以前に知性を捨ててしまったからそういうアホくさい発言をするのかもしれないけど。

男らしさ、女らしさを捨てることが家庭の崩壊につながるとか言ってる人。そんな脆い家庭しか築けなかったならとっと家族解散しなしい。これは夫婦別姓に反対する人にも言えることだけど。そんな貧しい人間関係はいったん清算してもっとまともな関係を誰かと築いた方がマシ。

僕は男が男らしくなるのも、女が女らしくなるのも、いけないなんてこれっぽっちも思っていない。そうすることに無理がなくてそうしたいならそうすればいい。もっともチンポの大きさと機能でしか自己確認ができないような「男らしさ」には問題があると思うけど、まあそれだって性犯罪に走るわけじゃなければ勝手にやってくれってなもんだ。ただ、同様に、男が男らしくなくなろうと、女が女らしくなくなろうと、それがいけないなんてこれっぽっちも思わないという、ただそれだけの話なのだ。
posted by けいりん at 15:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
むだづかいの人がこの話題に興味を持った模様です。
しかしながら、今は書きたい事が大学ノート20ページ分くらいあるので、いつのことになるやら…
Posted by えっけん at 2004年05月12日 19:50
性差の先天性・後天性の部分ですが。

性差の基本的な土台は胎児期にホルモンによって作られる。
その土台(男脳・女脳)のうえに、それに逆らうような概念や意識を教育によって載せてしまうと、個人の内面の安定に障害を起こす可能性がある、という話だと思います。
男脳を持つ男子が、それによって男性的な嗜好や思考を示したとき、だれか(教育者)が「あなたは自分が男だからそうしなければいけないと思っているのでしょう」と批判されたらどうなるか、そういうことでしょう。
性差といっても幅が広く、明確に先天性で物理的なものと、後天性で社会的なものとを区別することはできません。
だから現段階で「社会的性差は差別だからいけないこと」と学校で教える現在のジェンダーフリー教育はおかしい、という批判は間違っていないと思います。
Posted by bix at 2004年09月08日 10:38
コメントありがとうございます。

>個人の内面の安定に障害を起こす可能性

おそらくこういう主張があるんだろうと言うことは考えていて、「歪み」云々という記述はこういうことも含めて書いたつもりだったのですが、今読み返してみると確かに伝わりにくかったですね。

私は例えばある種の傾向として男女の脳の違いがその性格の違いとなって現れるであろうことまで否定するつもりはありません。ただ、脳で全てが決まるわけはなく、その他多くの要因が個人の性格を形作る結果、「男らしい性格/女らしい性格」の間には無数の段階が存在しうるし、それは身体の男女差と完全に境界を一にするものではなく、むしろ相互にその境界を侵犯しあうような形で個人が分布しているはずではないのかと思えるのです。

そのような前提に基づいて、私は「現実以上に、性差を固定化している可能性」について指摘しました。それはどういうことかというと、「男脳・女脳という土台に反した概念を植え付けること」と同様に、「個人の内面の安定に障害を起こす可能性」は、反対の側にも存在しうるのではないかということです。

ただ、私は伝え聞く限りでの教育現場におけるジェンダーフリーの試みには、多くの場合否定的です。それは例えば、bixさんが、

>男脳を持つ男子が、それによって男性的な嗜好や思考を示したとき、だれか(教育者)が「あなたは自分が男だからそうしなければいけないと思っているのでしょう」と批判されたらどうなるか

としてあげておられるような形での「ジェンダーフリー教育」は、やはり的を外しているように思えるからです。そういった試みは、全ての人を「男らしくない男」「女らしくない女」に画一的に塗りわけてしまうものでしかありません。むしろジェンダーフリーの課題は、「男らしさ/女らしさの枠にあてはまらない人間を、無理に枠に閉じこようとしないこと」の方だと思うのです。

もちろんそれを実現しようとする過程で、当たり前とされている概念や倫理観の解体は有効に働きうるでしょう。けれども、「男らしい男から男らしさを取り去ること」といった形での、現実レベルでの「解体」は、時に有害名結果を生むのではないでしょうか。むしろ、それらの性格特性を生物学的性差の帰結ではなく、『個人の性格』として読み替える訓練をしておくことの方が、重要なはずです。

>性差といっても幅が広く、明確に先天性で物理的なものと、後天性で社会的なものとを区別することはできません。

これは全くおっしゃる通りだと思います。
ただ、そうであるならば、現在のジェンダーフリー教育と同様、全ての性差を自明のものとして個人や社会を判断するような立場も、やはりおかしいのではないでしょうか? 性差を正当化する方の中には、「それが『自然な』ことだ」みたいなことをいう方もいて、「先天性/後天性」にまつわる私の批判は、主にそういう主張に向けられています。

もしこういったことを学校で教えるとするならば、何らかのテーゼを押しつけるのではなく、「将来自分が当たり前と思っていることに疑問を感じることのできる能力」を育てること以上のことはできないのかもしれません。ただし、そうであっても、「男である/女である」ことのみによって、何らかの希望や行動が妨げられるような課程だけは避けるべきだと思いますが。
Posted by けいりん at 2004年09月09日 10:22
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