2006年04月09日

チョー能力、みたいな(3)

 前回では、「超能力もの」というジャンルが、変身ヒーローとはまた違った形で、思春期の問題を象徴しているのではないかという話をしました。
 では、変身ヒーローものが「響鬼」という「大人」のヒーローを作り出したように、超能力ものにもそういった「回答」は存在しうるでしょうか?

 まだ結論を出すには早いような気がします。
 ただし、連載途中ながら、その可能性を孕んでいそうな作品ならあります。
 次にあげるのがそれです。

絶対可憐チルドレン 1 (1)絶対可憐チルドレン 1 (1)
椎名 高志

小学館 2005-10-18
売り上げランキング : 8,068

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 超能力が当たり前のものとなっている近未来を舞台に、最高位「レベル7」の超能力を持つ、わずか10歳の3人の少女、「チルドレン」(薫、葵、紫穂)の活躍を描くコミック作品。

 10歳という年齢は、思春期というには幼すぎると思われるかもしれませんが、女の子であればぎりぎりその入り口と考えてもいい年齢と思われます。また、実年齢のことはさておくとしても、ケタ外れの(レベル7の超能力者は日本に彼女ら3人のみ)超能力を持ったため、さまざまな意味である程度大人びざるを得なかった彼女らの姿は、ストレートに中高生を主人公にする以上に、子供と大人の挟間の存在としての「思春期の若者」の象徴足り得ているといってもいいでしょう。
 彼女らはその超能力ゆえに、同世代の友人を作れず、大人からも怖がられ、ただ政府機関の一員としてのみ、居場所を得ています。そんな彼女らを現場で監督するのが皆本光一(20)。
 彼女らに対して徹底的に甘い「局長」や、恐れながら接している多くのスタッフとは違い、皆本は「子供に対する大人」として、時に厳しく、けれども力強くその存在を受け入れようとします。

 このマンガが超能力ものにおける「思春期問題」の回答足りうる可能性は、彼の存在にこそあります。
 変身ヒーローものに象徴される思春期の問題とは、「自らが別のものにかわってしまう恐れ」「自分が根本的には悪の存在なのではないかという不安」でした。それに対して超能力ものは、多くの場合、その持てる力を肯定し、世界の側を敵=悪に設定します。そこには常に傲慢という落とし穴があり、また一方では自ら以外を全て「敵」とすることによる絶え間ない緊張がありました。

 皆本の存在は、そこに差し挟まれた「和解」の可能性です。
 もちろんその道は簡単ではありません。この作品においても、将来、超能力者と普通人の戦いがおこることが予知されており、主人公の少女たちも超能力者側の最重要人物として戦いに加わることが示唆されています。
 けれども、そのことを知らされた皆本は、決してあきらめようとはしません。彼はその戦いを防ぎ、超能力者と普通人が共存できる社会を模索します。そして「外れたことがない」というその予知に逆らい、彼女らとの信頼関係を築こうとするのです。

 ほかにも、超能力排斥団体「普通の人々」や、普通人と超能力者の対立をあおり、おそらく将来の戦いの準備を進めていると思われる超能力者集団(ちなみにこのリーダーが80歳ながら若者のような外見を保ち、学生服のような服を着ているのはなんとも象徴的です)の存在など、従来の「世界を敵とする超能力者もの」の構図にあてはまるものは多々あります。しかし主人公「チルドレン」は、未だ幼いが故に、その構図の中の不確定要素として描かれます。皆本はそんな彼女らを時に支え、時に守り、時に導こうとします。

 皆本が超能力を持たない普通人であることも、大きな意味を持っています。なぜならそれは、「超能力者=思春期の象徴」という構図の元では、皆本がまさに彼女らの「外側」にいる人間であること示しているからです。彼は二重の意味で「大人」の役割を担わされています。実年齢によって、そして思春期のエネルギーとしての超能力を持たない普通人として。

 もっとも皆本は、「かつて天才少年として普通の子供たちから疎外された」過去を持ち、現在でも異例の出世をしたトップエリートであるため、「ただの普通人」とはいいがたいかもしれません。ただしその設定は、皆本がチルドレンに寄せる共感の源として描かれており、20歳という、完全な大人というには若すぎる設定とともに、彼もまた思春期をくぐり抜けてきた(あるいは完全に抜けきってはいない)人間であることを示す特質であると言えるでしょう。いずれにせよ、皆本がチルドレンの「一歩先」にいる存在として、「大人」の役割を担わされていることは変わりないと考えます。
 そしてまた、この、皆本が体現する思春期と大人の連続性故に、皆本は単なる「外部から見守る存在」としてではなく、「思春期の存在が将来なり得る可能性」としての大人をあらわしていると言っていいでしょう。

 そんな皆本が、「超能力を持ち世間から排斥される自分にはこんな道しかなかった」と語る超能力犯罪者に対して叫ぶ台詞。

 君は何にでも
 なれたし、どこにでも
 行けたんだ!!

 この子たちの未来を
 自分と一緒に
 するんじゃない!!
   (『絶対可憐チルドレン 1』p47)


 この言葉は、もちろんチルドレンに対する「可能性の全肯定」であるわけですが、それと同時に、「自分がたどってきた道の全肯定」でもあるのではないでしょうか。ここにも、皆本自身が「思春期をくぐり抜けてきた存在」としての大人であることが示されているように思うのです。彼はその孤独と戦いを通り抜けてきた人間として、こう言っているのです。「自分の生きてきた道を肯定できるような生き方をしろ」。
 それが彼の行動原理である限りは、彼がチルドレンを「正しい道へ導こう」とすることは、単なる独り善がりであることを免れるでしょう。そして彼はその行為だけではなく、自らの存在を通しても、彼女らを「導いて」いくことでしょう。

 変身ヒーロー自身が「大人」となった「響鬼」に対し、ここでは「主人公を見守る大人」が回答の可能性を示唆しています。
 どちらにせよ、「大人」の存在が鍵になっているのは、ある種の時代精神を反映しているのかもしれません。

 思えば私たちの思春期時代、「若さ」は一つの価値でした。それはいつの時代でもそういう部分はあるのでしょう。しかしその頃、決定的にかけていたものが一つあるような気がします。それは「年をとること」を肯定的にとらえるための何か・・・いってみれば「大人としてのカッコよさ」のモデルだったのではないかと思えるのです。

 もちろん、私の親がダメな大人だったというわけではありません。しかし親の生き方に対して何らかの形で反抗し、それ以外の生き方を模索するのは、それこそ思春期にはよく見られることです。親以外にも、教師など身近な権威に対しては、ことごとく反抗心を燃やすのが、むしろ当然とすらいえるでしょう。
 けれども私は、当時のその反抗心を、ただ単に「若さ故のものである」とする情報しか、受け取った覚えがないのです。それは事実かもしれません。しかし周りの大人=社会そのものに対して飽くなき反抗心を燃やし、自らの変化に戸惑い、自分が何になろうとしているのか、どうすることが正しいことなのか、必死で模索する少年少女にとって、それが若さ故のものに過ぎないという回答=自分もいつか、今反抗している相手と同じような「ただの大人」になってしまうことを示唆する回答は、あまりに酷といえるのではないでしょうか。彼等が求めてやまないのは、そして彼等に与えられるべきは、単純な理想像としてのみならず、自らも「かっこいい大人」になりうるかもしれないという可能性を示唆するものとしての、「かっこいい大人」のモデルではないでしょうか。

 前半期『響鬼』や『チルドレン』にその「モデル」を見てしまうのは、単なるオタクの夢想かもしれません。

 けれども、このような象徴的なテーマの2作品がともに「大人」を鍵とする作品を生み出した背景には、社会が「かっこいい大人」を必要とし、その可能性を模索しはじめていることがあるのではないかというふうにも思えます。

 その「モデル」があまりにも具体的に固定されるのは危険なことでしょう。
 けれども、皆が「かっこいい大人」の可能性を信じ、それがどういうものなのか模索していくようになるならば、こうした試みが繰り返されることには、十分な意味があるのではないでしょうか。
posted by けいりん at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。