2006年06月30日

自己評価

 「自分」とは自覚している部分だけではない、と思うのですね。体とか無意識とか、そういう自覚の外にあるものもやっぱり「自分」であるということです。
 だから自己評価っていうのは、ものすごく限定された「自分」の一部が、やっぱり限定された「自分」のほかの一部を評価しているに過ぎないわけです。

 もちろんそれにも意味はあるんですよ。
 それが限定的なものだと意識できるうちは。
 境界条件を正確に把握できる限りにおいては、自己評価や自己分析も十分に正確なもの足りうるでしょう。

 けれどもそういった「自分を見つめる営み」から必然的に抜け落ちてしまう部分はあって、「それもやっぱり自分(の一部)だ」という意識は、例えば責任だとかそういうことを考える上では決定的に重要であるように思えます。

 他者に対したときの自分の言動が、例えば「生きていこうとしているとしている」としか思えないものであったら、たとえ口では「死にたい」と言っていようと(そしてその人の「一部」は本気でそう思っていようとも)、総体としてのその人は「生きたい」と「思っている」と言っていいのではないでしょうか。

 「思っている」というのは誤解を招く言い方ですが、まあなんか「そうしようという無自覚な意志を持っている」とかそんな風にとらえておいて下さい。

 ちょっと話は変わりますが。
 占いとか心理テストとかの結果を見て、「これ当たってる!」っていう人は多いですよね。
 どうもあれって疑問なんですよ。

 「しっかり者に見られがちですが内心は寂しがりや」とか、そういうのって本当に自分で「そうだ」とか「違う」とかって分かるようなことなんでしょうか?
 「しっかり者に見られているかどうか」は他人が決めることである、というツッコミどころはさておくとしても、私は「寂しがりや」なんていう内心に関する事柄についても、自己言及の枠の中でのみ語れることだとは思えないんですよ。
 なぜなら、「どんな性格か」をとらえようと自分の中を見つめる時見えるものは、せいぜい「そういうときの自分」に過ぎないからです。

 むしろ。
 全くほかのことを考えたりやったりいる時、どういう思考をたどり、どういう感情に支配され、何を言い、何をするのか、ということ。
 「性格」というのはそういうところに現れるものではないでしょうか。

 そして自己評価、というのも、これとにたところがあるように思えるのです。
 「自分が嫌いだ」と言いながら、自己愛的な行動を取り続け、俺様的な発言を始終繰り返す人は、本当に「自分が嫌い」なんでしょうか?

 ええ、なくしたいのになくすことができない「嫌いな部分」が自分にある、ということの表現としてなら、「自分が嫌いだ」というのもよく分かるし、日常言語の範囲において、この言い方が不当だったり不正確だったりすると主張するつもりはないのですが。

 ただ、私自身は、こういう意味で、「自分は自分が好きだ」と判断せざるを得ない、っていう話なんですね。
posted by けいりん at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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