2004年06月29日

恋とか愛とか

恋と愛がどう違うのかってことがよく言われるけど。

はっきりさせておかなければならないのは、「愛」も「恋」も、結局のところはとても抽象的な概念であり、あらゆる恣意的な解釈が、それぞれに対してなされ得るということだ。

たとえば、「恋は奪うもの、愛は与えるもの」といった単純なテーゼにしても、決して実体としての愛や恋そのものの分析結果ではない。もちろんだからといって「奪うものを恋と呼び、与えるものを愛と呼ぶ」のほうが正しいとまで言えるわけではないし、恋も愛も、抽象物とは言いながらそれを述べる人の経験から出ている場合は、直接体験の帰結とはいえるわけで、一概に否定できるものではない。しかし、これに対して例えば「愛は惜しみなく奪う」というテーゼを対置させたとき、しばしば「それは『本当の愛』ではない」という議論がなされるのは、やはりちょっと的を外しているのではないか。われわれが「恋」といい「愛」というとき、それはたかだか個人の心的状態や他者とのある種の関係性に名前を付けたものでしかない。決して個人や個人的関係をはなれたどこかに「本当の愛」があって、人がそれをなぞっているわけではない。まず最初に一定の状態、あるいは行動があり、「恋」や「愛」とは、漠然と、非常にゆるやかに、それを分類し、名付けたものにすぎないのだ。

ただし「名付け」というのは、完全に恣意的な行為に見えて実はそうではなく、個人と他者とのネットワークの中で、曖昧かつインタラクティブな形で行われているものだし、そこには一定の「ルール」らしきものが存在しているので、その限りにおいては、「恋」も「愛」も個人の思惑以前にある程度定義付けられている。しかし、いやだからこそ、個人がそれを完全に分析しようと言う試みは、必ずどこかに齟齬をきたすことになる。なぜなら、あらゆる概念がそうであるように、語の定義は本来ゆるやかな他者とのネットワーク上で行われるべきもので、それを個人が決めつけるのは「ルール違反」だから。さらに、「恋」や「愛」が、個人の感情の問題=完全に個人的な問題に見えて、実は、必ず対象としての他者を前提としていると言う意味でも、その実体めいた部分は個人の内にではなく、他者との関係の内にあるといえるのではないか。

「あなたが好きです」と人が言う時、その感情は既にその人個人のものではなく、他者の関与がなければ生まれ得なかったものなのだ。それが恋であるか愛であるかなどということも、やはり対象との関係のうちで答えを見つけだすしかないはずだ。思い悩み、決めつけ、結論を出す前に、対象との関係をどう形作っていくかということが問題だろう。もちろん、その指針を示す理念として、「理想の愛」の姿を持っているのは悪いことじゃないし、必要な場合もあると思う。しかしそれが絶対的な基準とならないことは大事なことで、というのも、対象との「間」にあるはずの、したがって関係が移ろい行く中で変わっていくものであるはずの「愛」に絶対的な基準を持つことは、不可能であるばかりか、有害ですらあるように思えるから。
posted by けいりん at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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