2005年03月28日

「ネットワーク」?

 ネットワーク論、みたいなのがあるらしいけどそれについては全く知らないので、この言葉を使っていい物かどうか実のところ良く分からないんだけど。世界は結局「ネットワーク的」なものなのではないかと考えることがある。

 まず、個々の物について。たとえば個体生物の境界はどこまでか、と言う問題だけれども、植物にしろ動物にしろ、全ての生命は環境から物質を取り入れ、内部から環境に物質を放出して生きている。これは言い換えれば「特定の環境抜きにはそれは個体生命として機能しない」ってことだし、そこまでいわなくても、摂取した物質はいつからその生命の一部で、排出される物質はいつからその生命の一部ではなくなるのか、という問題を考えただけで、「生命と環境の境界」が極めて曖昧な物であるのが分かる。これは非生命に関しても同様なのであって、長い時間の中で起こる崩壊や変容の過程を想像すれば、それについては理解できるだろう。

 そもそも個物の「性質」というのは、環境との相互関係のうちでなければ意味を持たない。マッチが燃えるのは酸素を含む空気中に存在し、何らかの形で熱を与えられるからだ。鉄が重いのは重力のある所にあるからで、ダイアモンドが硬いのはぶつかったりこすったりする対象との関係の内においてである。重さでなく質量ならば重力の有無とは無関係ではないのか、等の反論は根本において意味をなさない。というのも、僕が言いたいのは「事物の性質は関係との相互関係においてのみ立ち現れる」と言うことだからで、質量といった性質も、基本的にこの枠からは外れていないからだ。

 別に、「環境との関係性を推察する精神の重要性」を説くつもりはない。僕はそこまで「精神」というものに特権を与える気にはなれない。というよりも「精神」もまた、関係性の網の目の内においてのみ初めて現れる物であるように思えるのだ。個々人の心は外界から身体を通して情報を取り入れ、身体を通して外界に作用し、また身体そのものからのフィードバックを受取る。問題はそれらの入出力なしに精神は精神として機能しうるかと言うところにあり、まあ完全な論証も実験も不可能だとは思うのだけど、僕はおそらくそうではないだろうと考えている。精神とは情報の入出力の形式そのものであり、情報との相互作用においてのみ立ち現れる物ではないか、と。

 このようにして全ての個物は環境とつながり、環境の内にのみその性質を現す。いるが、環境とはすなわち「それ以外の個物」の集合である(厳密にはちょっと難しい問題もあるけど、とりあえずそう言うことにしておく)。ならば「個物は環境とつながっている」ということは、すなわち「個物は他の個物とつながっている」と言い換えることができるし、「環境の内にのみ性質を現す」というのも、「他の個物との関係の内にのみ云々」と読み替えることができる。

 思うに、そういった「関係」、それこそが、世界とその内容のあり方を規定する、唯一の実在なのではないか。我々が個物と思う物は、我々自身を含めて、そう言った関係性の網の目の結節点に過ぎないのではないだろうか。

 それは例えば、ある単語の意味が、究極的には他の無数の単語との相互的な関係性の内においてのみ規定されており、「意味」の自立性等存在していないのとにたような物であるように思う。
posted by けいりん at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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