2005年07月14日

理解と誤解

 僕は常々、「他人を理解したことは最大の誤解だ」と言って来た。

 もちろん、今でも基本的にはそう思っている。
 僕らはどこまでいっても、「自分」という枠の中に捕われた存在でしかないし、理解できるのは「自分の心の中に写った他人」がせいぜいだ。
 人を愛するという行為は、この認識から出発しなければならない。
 自分ではなく、それゆえに決して完全には理解できない他者を、それでも尚、知ろうとし、信じ、受け入れようとすること。
 それは見果てぬ夢だ。
 もう多くの人にとって忘却の彼方に消えてしまったであろうあるアニメの台詞を借りるなら、「祈りみたいなもの」なのだ。

 ただ。
 僕は最近になってちょっと思うのは、これは結局「理解」という言葉に、何か究極の物、認識即対象であるような物を想定しているからこう言う考え方になるのであって、その前提を疑ってしまえば、全くナンセンスな決め付けなんではないかということだ。

 つまりどういう事かっていうと。
 アナキンくん(仮)がドゥークーくん(仮)に右腕を切り落とされる、ということがあったとしよう。周りの人、オビ=ワンくん(仮)、パドメさん(仮)、ルークくん(仮)は、口を揃えて、「大変だったねえ」「苦しいだろう」「痛いでしょう」でなことを言う。しかしアナキン君が感じている激痛と屈辱たるや、到底常人の理解の及ぶところではない。アナキン君は思う。「ケッ、分かったようなこと言いやがって!どいつもこいつもほんとは何も分かっちゃいねえ癖に!」

 在り来たりの慰めにここまで苛烈に反応するかどうか、それはアナキンくんの性格の問題や、アナキンくんと周りの人のこれまでの関係性の問題でもあるので、ここではひとまず問わないことにしよう。今考えたいのは二つの点、「常人の理解の及ぶところではない」というところと、「『ほんとは』何も分かっちゃいねえ」というところだ。

 まず前者だけど、そう判断しているのは誰なのか、というのが問題だと思う。上では台詞外でつかっているので、単なる定型句、または「神の視点」による言葉であるようにもとれるが、全体の流れからすると、アナキンくんもやはり「誰にも分かるわけがない」と思っていることがわかるだろう。冒頭に述べた「他人は理解できない」という考え方をここに適応すれば、「それは当たり前」ということになる。

 だけどそれはホントかな?
 「分かるわけがない」という決めつけは、やっぱり他人に対する勝手な決め付けで、つまりは「こいつ(ら)はこの痛みを分からない人間だ」というふうに、「分かった気になって」ることに他ならないんじゃないだろうか? 
 もちろん、この場合はアナキンくんがちょっと特別な体験をしているところから、このような一般論だけでは語り尽くせないかもしれない。その場合、「分かるわけがない」っていうのをより正確に言えば、「同じ体験をしていない以上、だれにも分かるわけがない」ということだろうと思われる。だけれども、例えば同じ体験をした人なら、本当にそこに理解が生じるんだろうか? 僕にはそうは思えない。世の中には痛みに強い人や弱い人がいる。右腕を切り落とされると言うのはそんな個人差を超えた痛みをもたらすかもしれないが、それでも痛みのあまりショック死する人と気絶する人、歯ぎしりして耐える人の間には、「痛み」の違いがあるのではないか。そして痛みから何を生じさせるか、怒りか、復讐心か、悲哀か、無気力か…といったことも、おそらく人によって違うであろう。 
 こういった違いを体験したことがあれば、同じ体験がもたらすのは多くの場合「より完璧な理解」などではなく、「お互いの違いのはっきりとした認識」でしかないことが分かる。それこそが理解の第一歩だと言うところまで踏み込むならその通り。だけれども体験が苛烈であればあるほど、一見共通の土台を持っている人同士っていうのは、それぞれの考え方の違いについて、必要以上に腹を立てたり、失望したりして、結局物別れに終わることが多いような気がする。それは多分、「誰にも分からないよ」という孤独感が薄まるかもしれないという期待が裏切られたことへの反動なんだろう。僕自身の体験に照らしても、同じことを体験したはずなのに全く話が通じない相手とは、互いの痛みを理解しあうどころか、腹を探りあい、気遣いあって、かえって疲れる関係しか築けない場合の方が多い。

 2点目、「ほんとは」わかっちゃいねえ、という言葉の問題は、1点目の後半で述べたこととちょっと重なる。というのは、「ほんとに」理解する、というのは一体どう言うことなのか、というのが問題にされなければならないからだ。
 「余人似は理解できない」と言うことを強調する人は、どういうふうに「理解」されたらそれは「理解」だと認めるんだろう。同じ体験があっても、感じることが人それぞれなのだとしたら。
 それはもちろん、自分と完全に同じ感じ方、考え方をしている場合だろう。
 だがしかし、やはり、原則的にそのようなことはあり得ないのだ。
 なぜなら、「腕を切られたアナキンくん」と、「腕を切られたルークくん」は、やはり結局、全くの別物だからだ。「腕」といってもそれは同一の腕ではなく、その衝撃を脳まで伝える神経組織も、それを「痛み」として認識する脳のシステムも、あまりにもかけ離れ過ぎていて、それがどこかの時点で同一の物だなどとはとても言えない。例えば人が何かをみている時の脳内の活動電位を、そのまま他人の脳に再現しても、決して同じ物は見えない、それどころかまともに視覚情報としてそれを読むことができるかどうかも怪しいという。だとしたら、つまり刺激と脳で生じていることが一対一対応ではないのだとしたら、一体共通の体験とは何なのか、他人を理解するというのはどういうことなのか。そして「本当の」理解等存在しないのだとしたら、オビ=ワンくんやパドメさんが示す慰めの言葉の、何がアナキンくんをそんなに不快にさせるというのか。言い換えれば、結局理解というのは「そういうもの」でしかないではないか。

 別に僕は悲観的になっているわけではない。
 もちろん、繰り返すように、自己と他者の違いを、能う限りしっかりと自覚しておくことは、愛につながる一歩なのだと思う。
 しかし、それが、他者を切り捨て、自己を制限する役にしか立たないのであれば、そんな物は単なる頭でっかちの論理的ひきこもりでしかない。
 僕らは、違いを知り、充分に慎重になった上で、大胆に他者への一歩を踏み出さなければならない。それは、例えばオビ=ワンくんや パドメさんの慰めの言葉を、「分かっていない」と切り捨てることなく、むしろこちらから理解しようとすることこそがその始まりなんだと思う。

 加えて、僕らの性格、感情や思考、そういった物は決して自分に見えている物が全てではないということも知るべきだろう。むしろ、「自分に見えている自分」なんて氷山の一角に過ぎない。他人がみている自分をも自分の一部として受け入れることなしに、人は決して真実の自分の姿に到達することはないのだと思う。なぜなら、全ての個別性は、自己言及の内からのみ生まれる錯覚に他ならないのだから。
posted by けいりん at 16:05| Comment(0) | TrackBack(2) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/5077892

この記事へのトラックバック

わかったつもりになるな 〜事態は僕らが思う以上に深刻〜
Excerpt: 例えば天と地ほど違うって言葉、人は「違いが大きいことの例え」として漠然とした形でわかっているだけで、じゃあ天と地ってどのぐらいの違いがあるのか、というのを具体的に意識しながら使ってる人はまずいない。そ..
Weblog: ■脳内ズンタッタ■
Tracked: 2005-07-19 12:53

わかったつもりになるな その2
Excerpt: 【以前書いた僕の記事】わかったつもりになるな その1↓【↑に対するけいりんさんからトラックバック】理解と誤解↓つーことで続きものでも書きます。わかったつもりになるな その2上記リンク先「理解と誤解」の..
Weblog: ■脳内ズンタッタ■
Tracked: 2005-07-19 12:55
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。