2005年09月08日

批評・批判

 なんかね、端的に言って、疲れちゃったのね。

 別に批評とか批判をすることが悪いとは言わない。
 よく言われることだけれども、充分に根拠がある批判が自由にかわされる風土こそが健全なのであって、根拠のない悪口と故のある批判を区別せずに「人を傷つけた」と非難する連中こそが個人の尊厳や自由の破壊者なのだ。

 けどね。
 まず、根拠がありゃそれでいいのかっていうとやっぱりそれは違うと思う。
 ていうのは、「なんのために批判しているのか」「自由な批判によってもたらされる健全さとは一体なんなのか」って話なんだけど。

 ある人がある意見を述べる。
 それを聞いた(または読んだ)別の人が、それは違うんじゃないかと考え、そう述べる。
 最初に意見を述べた人はそれにたいして反論する。
 こうして議論が生じる。さらにそこには時折第三者が意見を差し挟んだりする。
 議論は何らかの同意に至るかもしれないし、物別れに終わるかもしれない。けれども物別れに終わってさえ、そこに冷静さと、相手を尊重する態度があるなら、互いの意見はしばしばある程度議論の前より変化するだろうし、そこまでいかなくとも、自分自身でさえ意識していなかった自分自身の意見の核心が、より明確な物になっっていることが多い。
 こんなふうに、議論は「それ以前には存在していなかったもの」を当事者に付け加えるし、付け加えられた物は充分よい(有用な)もの足り得る。

 そしてそれは、ごく稀にではあるけれども、単なる「同意」すら超え、より高い「真実」に到達する道筋とさえなりうる。
 といっても、ここで「真実」と呼ぶのは、何か絶対的なイデアの如き者ではない。むしろ、ごく私的な、個人的な「真実」のことで、それがなぜ他者とのかかわり合いによって生じうるかと言えば、個人そのものが関係性のネットワークの結節点に他ならないからだ。つまりこの場合の「真実」とは、知情意のそれぞれや心と身体が無駄も無理もなく協動するように、世界と個人が(あるいは個人と個人が)、無駄なく無理なく自由な活動を繰り広げられるための新たな関係性の網の目そのものを指す。

 まあそんな小難しいハナシはさておき。
 こういった様々な利点があるから、ある程度理性的な人や議論を推賞する人は、「根拠のある批判」をよいもの、あるいは少なくとも「容認されるべき物」としているんじゃないのかな。
 だとすれば、ある批判が「良い(あるいは容認されるべき)批判」かどうかは、単に根拠の有無によって判断されるべきではない。それは上記のような議論の過程を推進するような、少なくとも阻害しないような形式を持っていなくてはならないはずだ。

 だが現実には、「根拠のある批判」の全てが、このような冷静な議論を推進するような物ではない。むしろそれを阻害するような批判が、世間には溢れていると言っていい。
 具体的にはどう言うことか。
 それは多くの場合、レトリックの問題である。
 例えば、全く馬鹿としか思えないような意見に対してであれ、一言目に「あなたは本当にバカですね」という言葉を使うようなやり方は、その後にいかに「相手が馬鹿である理由」を客観的に冷静に連ねたところで、まともな議論をを推進するやり方とは思えない。もちろん、受取る側の問題と言う部分も忘れてはいけない。議論が意見と意見の相互作用だとするなら、当然受取る側にも、そんな言葉にどう反応するかと言う責任が存在する。しかしだからといって全てを受取る側の責任にするのもあまりにも乱暴だろう。そこには、言ってみれば「お互い様」というべき部分があるはずだ。
 もちろん実際にはこんなあからさまなケースは稀である(稀であるがゆえに目立つのも否定できないが)。しかし、如何に多くの意見が、「根拠」という一点に免罪符を求めた、「相手にどう受取られるかを考慮しない、理屈っぽい意見の垂れ流し」であることか。

 で、こちら。むだづかいにっき♂:事実確認は人格の否定ではないしょ

 例えばムラ太郎君のブログにおいて、「この前キャンディーズのCDを買った」という記事を書いたとします。その記事についたコメントの流れとしては、「やっぱりランちゃんが、かわいいよねぇ」というもの。そこへちょっと乗り遅れた常連のモヒ三郎君が「いやぁ、ランちゃんブスだし、でしゃばり過ぎでしょ。俺はグラマラスな方が好きだからスーちゃんがいいな」という発言があったという、そんなものでしょう。(略)
 このモヒ三郎君の発言が批判されるとしたら、「空気読めていない」ということだけであって、別にランちゃん好きの人格を攻撃しているわけではないのですよ。


 僕も「人格攻撃」というのは言い過ぎだと思うけれども、「空気読めていない」じゃ済まないとも思う。「ブス」という強い言葉は、「かわいいよねぇ」とあからさまにいっている相手にたいしては不適当であるように感じるからだ。「オレはかわいいとは思わないけど」「オレの好みではないなあ」とかなんとかいくらでも言い様はあるはずだし、そういうふうに言い方を変えたところで、モヒ三郎の言論は、いささかもその内容を失ってはいないはずだ。次いでながら言っておくと、「ブス」とか「クソ」とか言う言葉は、本来全く主観的な物なのだが、しばしばあたかも客観的な評価であるかのように使われ、相手のそれ以上の反論を無効化してしまう。使うほうは単に感情の発露として使ったとしても、しばしば相手を口ごもらせる力を持つのがこの類いの悪態なのだ。

 そして逆に、全く意見の異なる他者が、互いの意見をかえず、お互いに主張すべきことを主張しながら、レトリックとそれを受け止める賢明さによって、至極和やかな「物別れ」を迎えることも、数は少ないながら、存在するのだ。
 議論好きの人の中には、レトリックの問題を過小評価する人も多いだろう。「そんな言葉のオブラートにつつまれた意見なんか聞きたくもない」という人だっているはずだ。けれども、「傷つけられた」と議論の場を去って行く人が、そこにのこっていればどれだけ建設的な働きをすることをできたかということに目を向けてもいい場合っていうのも確かに存在する。

 「開かれた意見交換の場」を目指すあまり攻撃的な文体が飛び交うような場所は、実はそのあり方によって「言葉の使い方」が違うだけの貴重な意見を閉め出す結果になっている場合が多い。
 もちろん逆の場合、つまり和やかさを目指すあまり「なあなあ」になって、なにか批判的なことを言おうものなら条件反射的に「人を傷つけるのは良くない!」と言われてしまうって場合のほうが圧倒的に多いし、意見交換の阻害という意味ではそちらの方がより深刻だったりはする。
 けれども、議論を求める人も、本気でそこから何かを得ようとするんだったら、言葉の使い方にもう少し気を配ってもいいんじゃないか。
 あまりにも攻撃的な物言いが、実は全く意見の合わない他者を威嚇しようという無意識の防衛反応なんじゃないかってことはさておくとしても、本当に「開かれた場」を目指すって言うのは、そういう事なんだと僕は思う。

 ていうかさ、正直、「根拠があればいいんだ」という考え方の、その根拠が僕にはよく分からないんだよね。や、上で書いた通り「根拠のある批判が有用だ」というとこまでは分かるんだけど、「根拠さえあればいい」っていう極端さがわからない。
 結果に頓着せず、なんの目的もなく批判するのは、根拠があろうとなかろうと結局ものすごく利己的な行為で、利己主義が悪いなんて僕はかけらも思わないけど、それが「人を傷つけた」というなら当然そのことに責任をおうべきなんじゃないの?っていう。

 もちろん、世の中には度を超した「自意識過剰ちゃん」や「僕に優しくしてよ君」、「和をもって尊しとなす氏」なんかがあふれているわけで、そんな場合にまでいちいち責任を重くとらえるべきだなんて言わないけど。この文章だってだれかを傷つけないとも限らんわけだし。でも程度ってあるよね、「誰も傷つけない」ことはたしかに不可能だけど、「可能な限り誰も傷つけない」ことは、述べたいことを述べることと決して矛盾することじゃないよね、って言う話。
posted by けいりん at 17:24| Comment(6) | TrackBack(2) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あんまり関係ないかもしれないけれど、
>まず、根拠がありゃそれでいいのかっていうとやっぱりそれは違うと思う。
> ていうのは、「なんのために批判しているのか」「自由な批判によってもたらされる健全さとは一体なんなのか」って話なんだけど。

これにちょっとだけ関連するかな?
モヒカン族の掟:
http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80?kid=89#p1
Posted by at 2005年09月08日 22:31
うーん、関係はあるけど私の立場とは違うかな。
私は「目的=議論の結果もたらされるもの」のためにはレトリックを駆使するのもテクニックの一つだ、という立場なので。

万人向けに書かれるものならば、「余計な装飾」は削ぎ落として要旨を分かりやすく述べることの方が重要でしょうが、「議論」は本質的に「対話=相手のいる物」だと思うので。「相手にとって誤解なく受取れる形」のためにはレトリックが必要な場合もあるかと。

もちろんネット上はいつ誰が参戦してくるか分からないオープンな場所ですから、誰かと話していても「万人向け」も意識しなければならないのは分かるんですが、そこで上手に加減するのもテクニックかな、と。

もひとつ、「事実のみを」というけど、じゃあ「事実」ってなに?というのが気になります。具体物も含めて、「事実」っていうのは早い話が「私とあなたの共通認識」であって、それ以上の意味はないと思うんですね。「椅子」というモノに対して、自分と相手の認識に食い違いがないならば、「椅子とは何か」という問いは既にナンセンスであると言うか。そういうものは議論においては(暗黙の物を含め)「前提」として採用されているといっていいでしょう。議論が進む内に明かになる差異もあるでしょうけど。

本来、議論の参加者の一人が新たな事柄を提示する場合、それについては参加者全員から、それが「事実=前提」として採用できるという認証を得ることが必要です。

さらに、議論がどこか一点に収束するならば、その結果「新たな共通認識として認められる事実=結論」があるでしょう。これはもちろん、最後になるまでわからないものです。

これらのどの場合をとっても、「事実」とは(暗黙の了解で済んでいる物をのぞけば)逐一他者からの承認を得ることが必要な物であるはずです。だとすれば参加者の一人が行う「事実の提示」などあり得ません。

屁理屈に聞こえるのは充分承知していますが、事実、ケンカみたいなことになったり平行線をたどるだけに終わったりする議論は、双方が、最終的に導きたい結論とは別の部分ですら、「これが事実だ」と信じている物を疑わず、互いに確認しないところに問題がある気がするのですね。

私は、真に生産的な議論をするために大事なのは、「事実しか書かないこと」ではなく、「事実はこれから皆で見つけるのだ」という態度ではないかと思うのですが。
Posted by けいりん at 2005年09月12日 01:24
けいりんさん 今晩は。時々覗きに来て過去記事を拝読していました^^

今回の記事とコメントを拝読し,けいりんさんのおっしゃっていることを自分も身近に感じて居るのだ,と気付きました。と言っても自分の場合はツレアイとの話でよく感じるのですけれどね(^^;)。
「現実として,今は二人で話をしているのだから,まずは言葉遣いに気を配ってもいいのでは?」「今なにが共通認識になっていて,何をお互いが問題と意識しているのか,まずははっきりさせようよ」「今は正誤や善悪の話をしているわけではないでしょ?私が主張したのは別の部分だよ」 このような主旨で話を促そうとしても,どうもうまくいかなくて,ついに我慢できずに私が怒り出してしまう。結果,感情的に物別れして話も終わり・・・となってしまうのですよね(あー勿体ない;;)

互いにとっての事実を互いが主張するだけでは,平行線,下手すりゃ喧嘩で終わる・・・ ごもっともです。自分,反省です。

トラックバックさせて頂く記事は,事実に基づいて書いたものです。が,実はこの本文のあとで喧嘩に発展してしまい,何故だったのか原因がよくわからなかったという曰くつきだったのです。
やっぱりこれも「関係性」が絡んでいたのか・・・。 ここへ来て原因がみえたような気がしています。 

けいりんさん,アタマの中の糸をほぐして下さるような記事を,有難うございます。
Posted by かささぎ at 2005年09月14日 01:22
いえ、そんなお礼を言われるようなことではなく、私自身が「頭の中をほぐす」過程をだらだら書いただけのことですから・・・でも、何か役にたったのなら嬉しいです。

私の場合、必ずしも現実に生かせているわけでないのが問題だったりします(^^;

正直、現実のスピードって私にとってはちょっと早すぎるのですね。対話の中で何が問題なのかを絶えず考えて話題にしていくには、圧倒的に頭が追い付かないというか。そんなわけで何が問題だったのか分かるのはだいたいケンカ別れの数日後です。このペースですから、ネット上の白熱した議論にもおいつくのはかなり大変。「これについてはもう少し考えてみよう」と思ってオフラインでじっくり考えている間に議論は別の方向にいったり収束してしまったり。もちろんこれは私の方がよく考えているんだということではなく、思考の早さの違いって言うのはやっぱりあるのですよね。配偶者とのケンカでもよく思い知らされます。(<つまりいつも負けてるって事かorz)

本文には書きませんでしたが、「議論をするための議論」は、「議論をするための議論をするための議論をするための・・・」という無限後退に落ちいる危険も備えていますから、注意が必要だったりもしますね。それでもはっきりできるところまで掘り下げるのを恐れてはいけない場合はあると思いますが、この過程で決定的な亀裂が生じてしまうことも多いように思います。それはやっぱりどこかで感情的になってしまうからなのかもしれませんが。
Posted by けいりん at 2005年09月16日 00:49
けいりんさん 今晩は^^ 
以前の記事から,再度テーマを変えてまとめてみました。
それでもまだうまくまとまっていないのですが,ようやく記事としましたので,トラックバックさせていただきました。
「亀裂を生じ」させるのは感情が邪魔をするから・・・なのでしょうね,やはり。
私は自分の経験から本当にそう,思います(けれど,なかなか理性的なままの話し合いになりません・・・^^;)。

因みに,弊記事の「理論武装しますか?」の続きは翌9/13付の記事に少しあります。
その続き のようなものが,今回持参致しました記事へと流れているような感じです。
お陰様で何とか書けました。 けいりんさん 有難うございます^^
よろしければ これからも宜敷お願いいたしますね^^
Posted by かささぎ at 2005年09月22日 02:22
レス遅れて済みません。
気にはしていたのですが、レスをつけるよりはトラックバックしていただいた記事にコメントを付けようと思いつつ、まとまりのある物を書くことができないまま、時間が過ぎてしまいました。
近く、新たな記事の形でまとめたいと思っています。その時はどうぞよろしくお願いします
Posted by けいりん at 2005年10月11日 14:42
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