2004年03月18日

ガキはセックスしてはいけないか(3)

さて、僕は前回、「男の子の性欲には『おさえきれない』と表現せざるを得ないほど激しいものがある」ことを、経験上肯定した。しかしそれが本当に「おさえきれない」ものであるならば、(たとえそれが直接性犯罪に結びつくものではないとしても)社会生活を送ることそのものが難しくなってしまう。結局多くの男の子たちは、なんだかんだいいながらも、右手や左手やこんにゃくや道具によって、煮えたぎる欲求を処理しながら、昼間は何食わぬ顔で女の子と話をしているのだろうと思われる。だがしかし、男の子にあっても性交の初体験年齢が低下しているのも確かなことらしい。そういや昔僕の隣人だった高卒の男の子も、かなりお盛んだったっけ。まあそれは別にどうでもいいんだけど、今回はまず、男の子に関して、「あまり若い内にセックスしてしまうのってどうなの?」というハナシをしようと思う。

まず最初に断っておかなければならないのは、僕は決して、若い男の子の性欲に関して、「スポーツで発散しなさい」とか、「右手で十分」とか、「その若い情熱をもっと社会のために役立てるんだ!」とか、そういう、なんつーかいわば「古典的」な事をいうつもりは、全く、ないということだ。むしろ僕は、そのように「性欲の形」そのものが規定されてしまうよりは、バンバン好きな女の子とセックスした方がいいとさえ思っている。これは以前、女の子について書いたこととも通じるのだけれど、性欲が不必要に「恥ずべきもの」「よくないもの」とされることは、性欲と性行動のあり方を非常に狭い範囲に固着し、それによって暴発の危険を高めてしまうことにしかならないのではないかと思う。「性欲を理性で押さえるのが人間」という図式にも、正直ウンザリしている。根本的な問題は、そのような二項対立によってではなく、性欲そのものが社会性を伴うことによって解決されるはずで、それは可能なことであると、僕は信じている。

だが、しかし、やはり溢れる情熱のままに恋人を押し倒すのは、もう少し、待った方がいいのではないか、と僕は思うのだ。いつまで? それは、「恋人とセックスすることに疑問を持てるようになるまで」だ。

若者と一口にいってもいろいろな人がいるし、中にはこれから言うことにあてはまらない人もいるだろうとは思う。だからこそ、それぞれがじっくりと考えてほしいのだけれども、若い男の子の思考には、ある種の短絡さがしばしばみられるのではないだろうか。それはけっして、「十分に思考を働かせていない」ということではない。しかし、「とりあえずの結論を、最終的な結論として固定したがる傾向」みたいなものが、多くの若い男の子に見られるような気がする。

そのことは、たとえば「愛」とか「セックス」とか「結婚」とか「妊娠」とか、直面していたり何パーセントかの確率で将来起こりうる事柄について考えていても、同様であるように思う。例えば「愛しているから」という理由を、なんの疑問もなく受け入れ、押し通してしまったり、「今どき恋人と2人きりで相手もオッケーなのにセックスしないって変だろ」と理屈付けたり、子どもができたら結婚する、オレはそれぐらいこいつのことを愛している! だからセックスしてもいいのだ」とか正当化したり。

ところで、僕は思うのだけれども、あらゆる事柄は、結局、起こってみるまでは予想もつかないものだ。それゆえ、「あらかじめ覚悟せよ」というのは、多くのことについて、実は非常に酷な要求である。あらゆる場面における、「社会的常識に基づくリスク予測の義務」の押しつけは、その意味で、単に経験量を狭める役にしか立っていないし、そのことは結局、経験に基づいてリスクを上手に回避できるようになることから、人を遠ざけているのではないか。しかしそれならば、人はあらゆることを一度は経験してみるべきなのだろうか。極論すれば、誰もが一度は犯罪を犯して投獄されなければならないのだろうか。

そんなことはないだろう。人が経験から学やり方は、そんな直接的なものばかりではないからだ。人は複数の経験を、(あくまで無意識に)分析したり、組み替えたり、総合したりすることで、未経験のことがらに対するリスク予測を、ある程度可能にすることができる。だがそれはやはり完全なものではない。多少リスク回避やリスクの受け入れができるようになったところで、相変わらず多くの新しい経験は、「予想もつかない出来事」として目の前に立ち現れる。

それでも経験量が重要だと言いうるのは、多数の経験がもたらすものは、リスク予測能力の向上だけではないからだ。人は予測できなかった新しい経験を重ねる時、自分の能力の限界や可能性に気付き、さらには、あらかじめ予測できなかったものも含めて、自分の選択の結果を「自分の責任」として受け入れる能力を、少しずつ発達させているのではないか。

僕が若い男の子たちに「セックスはもうちょっと待ってもいいんじゃない?」と言いたくなるのは、まさにこの点からなのだ。というのも、セックスとは、結局のところ、自分だけではなく相手にも一定のリスクを負わせる行為であり、それゆえ、上記のような意味で「責任」というものを飲み込めるまでは、差しひかえるべきなのではないかと思えるのである。そしてそのためには、セックスほど相手に負わせるリスクが高くない場面で、多くの経験を積んでおくことが大事だろうってことだ。

もう一つ、「相手がある」と言うこと以上に重要なこととして、「自分の魂の状態に留意すること」をあげておきたい。「魂」等と聞くと何やら宗教的な、あるいは悪しき精神主義的な臭いが感じられるかもしれないが、僕がこの言葉で言いたいのは、「精神全体の整合性」とでもいうべきものだ。突出した欲望や衝動は、しばしばそれとは別の、深いところに確かに存在している他の欲求を見失わせる。自分の中に、どんな欲求がどんな割合で存在しているのか、それを全て明晰に知ることはできないまでも、ある程度、自分の内部にいわば「耳を傾ける」ことができるようになって、人は初めて自分の欲求に対する最も適切な行動の仕方を知ることができる。というのも、しばしば「自然な欲求」として許容されがちな男の子の性欲でさえ、実は社会的な傾向によって歪められ、範囲を狭められ、ある種の視野狭窄がもたらされていることがほとんどだからだ。「顔射」といわれるプレイを望む男が一部に増えているという。それはそう言ったプレイがアダルトビデオ等によって広く人口に膾炙するまでは、あり得なかった現象だ。たとえ以前から一部にそのようなプレイを好み、実践している人がいたとしても、その増加と言う現象はそのプレイを望むことを「ありうる自然な欲求」とだけ片付けることの不可能性を示唆しているように思う。このことは、人の性行動が、触れてきた文化の型によって決定付けられることを証拠付けているのではないか。そしてこういった限定された場面における「欲求の型付け」は、様々な欲求、意志、思考の構造体としての、いやむしろ有機体としての「自ら」のあり方を、も変えてしまうことになる。その時、静かに耳を傾ければ知ることができたはずのいくつかの欲求や意志は、無視され、歪められる。このことは見落とされがちなことだが、「ふつうの人」が時に、極端な悪意としか見えないものに引きずられてしまうという事象について考えるとき、決定的に重要なことだ。といってもフロイト的な分析にさして意味があるとも思えないんだけどね。こう言うことって最終的には「TAKE CARE OF YOURSELF」というしかないことなのだ。そして、そういう観点から、僕は欲求や思考が固着しがちな若いうちは、ちょっと待ってみてもいいんじゃないかなあと思うのだ。

こういった「セックスを差しひかえるべき理由」に関して、本当に大人たちがそれを克服しているのかといえば、実はそんなことは全然ないのである。いくつになっても人は予期せぬ結果に動揺し、他人によけいなリスクを背負わせ、一時の衝動に身を委ねることをやめられない。ただ、それだからこそ、多くの「責任ある行動を取れる」人たちは、判断に迷い、正しい選択をしようとし、時には後悔をしながらも、決断をするということの重荷を受け入れるのだ。もちろん、考え過ぎたって意味はない。けれども、自分の体と心、意志、そういったものにきちんと耳を傾けることができれば、ただ「考える」と言う意味で「迷う」ことなく、しかし結論を絶対的なものと思い定める事なしに、決断を下すことは充分可能なことだ。

だから「いいや、やっちゃえ!」と思う前に、ちょっと待って欲しいのだ。「いいや」のあとででもいい、「でもそれは本当かな?」 と思えること。責任ある決断の第一歩はそこから始まる。

ここまで、女の子のことについてはあまり触れずにきたけど、実は女の子の場合も事情はあまり変わらない。ただ注意を促しておきたいのは、「責め」とか「受け」とかそういうこととはあまり関係ないながらも、前回話したような事情によって、「男の子が求め、女の子が承諾する」という場面が圧倒的に多いってこと。女の子は古くは「大事なものをあげる」感覚で恋人に処女を「捧げて」きたし、今どきはまあそこまでじゃないにせよ、「あなたが求め、私が受け入れたんだ」という風な感じ方はまだ残ってるんじゃないかな? 気になるのは「相手が求めている」という現象の背後に「愛されているという実感」をみたがる女の子が多いってこと。

問題は二つある。まず、これって実は全然現実にはそぐわないというのが一つ。男の子はしばしば性欲だけで女の子を押し倒すし、そうでない場合についても、男の子自身が思い込んでいるほどには「愛して」なんかいない場合が多いのだ、実は。このへんのことは上記の魂云々って所とかを参考にしてほしい。

もう一つ、より重要なのは、誰かにどう思われているかということが自分の行動を決めるということに、どうして違和感を持たずにいられるのかってこと。男の子について書いたのと同じ意味で、女の子も責任を持ち、かつ自分の魂に留意できるようになるためには、この点が大きなネックになっていると思う。つまり、行動の主導権を、そのような受け身な形でしかとれないようでは、自己責任の感覚を養うのに十分な経験が持てないし、自分の内側に耳を傾ける訓練の機会も失ってしまうということだ。

もちろん、反論もあるだろう。「相手を受け入れる」というのも一つの決断であり、それにともなって起こる出来事を「自分の行動の結果」と考えることは、確かに十分に可能なことだ。しかし「愛されている実感」を得るために「体を許す」という形の中には、どうにも主体性が感じられないのだ。まあそれも充分「耳を傾けて」るし責任感ももてるというのならこれ以上いうことはないんだけど、例えば相手に押しきられる形で「生で」やることになりそうなんてときには、もう一度、じっくり考えるべきだと思う。妊娠のことだけでなく、ビョーキについても男から女への感染の方がしやすいし、そういう意味ではリスクが高い行為なのだ、女の子にとってのセックスって。

さて、特に男の子の話についてはわりとリッパ過ぎる感のある今回だけど、もちろんこんな理想論で話が終わるわけもないのであって、次回はじゃあ現実にはどうなの?って事を話して行きたいと思う。
posted by けいりん at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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