2005年11月11日

数学と物理学

どっちも詳しく知らんよ。文系だもん。

とはいえ、一応(ヘタレ)哲学士のはしくれではあるので、いろいろ考えるところもあるわけで。

ていうのは、何故物理宇宙は数学的につじつまが合うようにできてるのか、という話。
いや、全部つじつまが合ってるわけじゃないのは知ってます。
ただ、それは「未解決の問題」ってことになってるみたいなんだよね。

まあもちろん全部じゃなくたっていい。
投げあげた物体は何故放物線を描くのか、といった単純なハナシでさえ、単なる観念でしかない数学と物理現象が一致するってのはちょっとしたミラクルなのだ。

常識的なのは、「数学は物理世界の抽象であるからだ」ってとこだろう。
物理現象を観察し、そこか具体性(例えば「投げあげた石ころ」など)を捨象したものが数学なのだから、一致するのは当然だろう、と。

しかしこれには実は限界がある。
例えばりんごの数を数える場合。
一個、二個、三個。
3つ。
この「3」は、上記の説明に寄れば、「目の前にある3つのりんご」から、「りんご」を抜き去った結果生まれた観念であると捉えられる。
そして「3つのりんごと4つのみかん、あわせていくつ?」という問いと実際にそれを数えた結果から、3+4=7 という計算は生まれたことになる。
だが、それでは「10」は?「20」は?
それももちろん同様であろう。もちろんりんごでなくてもいい、我々が体験した何かから具体物を取り去ったのがそれらの数字であり、それらを計算した結果なのだというのがこの考え方なのだから、数が大きくなってもそれらは「我々の体験した何か」であるはずだ。
では、「1000」はどうだろう。「10000」は?「100000000」は?
それらも例えば「100000000個のりんご」を数えた結果生まれた観念だろうか?
いや、別に数をそこまで大きくする必要はない。
1〜50までの任意の二つの数字(互いに同じものでも構わない)の組み合わせは2500。それらに加えられる操作の数はまあわかりやすいところで四則演算の4。したがって1〜50までの数を体験し、それらを計算するには、最低でも10000通りの個数に関する体験をし、実際に数え、そこから具体物を取り除かなくてはならない。

だがもちろん僕らはそんなことはしていない。
もし「僕らは先人の知恵を教わっただけだ、体験はかわりに先人がやってくれたのだ」としても、先にあげたような大きな数まで含めると、やはり無理があることが分かる。いかに人類の歴史が長くとも、100000000や10000000000といった数を人類の祖先の誰かが実際に数えたとは思えない。そしてまた、「体験からの抽象」という方法では、例えば1+1=2がわかったからといって、100000000+100000000=200000000は少しも保証されることはない。
だが現実には、100000000+100000000=200000000であり、一億個のりんごと一億個のりんごを合わせると2億個のりんごになる。「数えてないのだから分からないじゃないか」と言われるかもしれないが、例えば重さを比べれば、それがわずかな誤差を残して一致することが確かめられるだろうし、たとえ一個や二個の増減があったとしても、それが重さの上で「誤差範囲」と思われる程度の違いでしかないのなら、「そこまで一致する」のが充分ミラクルと呼ぶに値すると思う。

何故こういうことが起こるのか。
なぜ、人類開闢以来誰も数えたことのない数においても、その計算と物理世界に起こることは一致するのか。
ちょっと問題が違うけど、「強い宇宙原理」ならこれを説明できるかもしれない。宇宙は我々が認識できるように出来上がっているのだ、なぜなら認識されない宇宙は存在しないも同じだから、というもの。
しかしどうもこれにはニワトリとタマゴ的な循環論の匂いがして僕は採用する気になれない(好きだけど)。

僕の答えは多分にカント的なものだ。
つまり、我々の認識する世界は、結局表象であって物自体ではない、ということ。
そして数学とは、我々の認識の形式そのものを抽象したものだ、ということだ。

どういうことかっていうと。
さっきの例で言えば、100000000個のりんごは、我々の認識の外でも100000000個のりんごであるとは限らない、ということ。じゃあ何であるのか、と想像することはできない。想像した時点で、それは我々にも認識可能なものとなり、認識可能であるならばそれがりんごであるという認識が誤っている、ということにしかならない。そうではない、間違っているのではなくて、それは徹底的に「認識不可能」な世界なのだ。我々が認識する「世界」は、我々の感覚器官や認識能力によって決定的に制限されている。
例えるなら、それは「翻訳」に近い。人間がやっても翻訳ソフトを使うのでもいいが、一度英語から日本語に訳したものから、もとの英語を正確に再現することはほぼ不可能だ。簡単な文章なら可能かもしれないが、ちょっと複雑な言い回しや抽象的な言葉が出てくると、もとの姿を正確に再現するのは容易ではない。つまり、我々が世界を認識するというのは、もとの英語を全く知らずに(それどころかそれが何語かと言う知識もなしに)翻訳済みの日本語だけを読まされているようなものなのだ。

そしてこの例で言えば、数学とは「日本語の文法」にあたる。もちろん現実の日本語は完全に文法に従うものではないが、ここでは「文法に完全に従って翻訳されるのだ」と考えてもらいたい。このように考えると、我々の認識する世界=日本語と、数学=日本語の文法が一致するのは、不思議でも何でもないことである。それは当然の出来事であり、人間にとって不可避の運命のようなものだ。

そんなわけで、僕は「虚数時間」とかそういう日常意識からすればタワゴトとしか思えないようなものも、「単なる理論的実在」でも「よりエレガントな説明のための方便」でもなく、「我々の認識にとっての不可避的な真実」という風に考えている(ただしこれは「虚数時間」を想定する宇宙観が、観測される宇宙と矛盾なく一致する場合ね)。と同時に、不確実性定理の存在は、宇宙の「完全で無矛盾な」認識の可能性を否定しているんじゃないかなあとも思う。そういう意味で「万物理論」にはなんとなく否定的な僕なのだった(イーガンの小説の方は文句なく好きだけど)。

あ、物理屋さんや数学屋さん、ツッコミはかまわないんですがどうぞお手柔らかに・・・
posted by けいりん at 01:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ちょっとだけ補足。
僕は「物自体」の存在をあまり重視してはいません。カントのように「確たる実在」と考えているわけでもなければ、フィヒテのように「存在しない」とも思ってません。じゃあどう思っているかというと、それは「不可知」としかいいようのない世界の話であり、不可知である以上はあるとかないとか議論することもできないはずだと思っています。そして我々の人指揮できる世界が「ここ」でしかない以上、「ここ」こそが「真の」世界であるといって問題はないとも思います。ここでは話を分かりやすくするために便宜上「物自体」という言葉をつかいました。結局我々の理性なんてものは、そういった実在に支えられることすらない、宙ぶらりんなものなのだと思います。

ただし神秘主義者としての私は本記事含めてここに書いたこと全部否定するような信念を持っていたりしますが(ぇ
Posted by けいりん at 2005年11月11日 01:26
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