ジーン・ウルフなんである。
ジーン・ウルフといえば、あの傑作SFファンタジー
『新しい太陽の書』4部作だけが邦訳されている(ただし現在入手困難)、あの作家である。短編は何かアンソロジーに入ってたと思うけど、それ以外は名前だけが繰り返し聞こえてくる、しかも大変高い評価とともに繰り返し聞こえてくる、私のような中学生以下のレベルの英語力しか持たない人間にとっては、まるで拷問のような事態になっている、そういう作家なのである。
その初期作品が新たに邦訳出版されていると言う。
最近本屋をゆっくり物色する時間を持てずにいる私が気付いたのはSFマガジン十月号の特集をみてから。おお、これは読まずばなるまいというんで急ぎ購入。
三つの中短編からなる連作。
遠未来、「なんにでも姿をかえられる原住民が、入植して来た人類を皆殺しにしてそっくり入れ替わっている」という伝説のある二重惑星を舞台にした3つの物語。
さて、ここで困ってしまう。
面白かったんである。夢中になって読んだんである。
第三部では「をを!」と唸ったりもしたのである。
まぎれもない傑作だと思う。
けれども、この作品を語れるぐらい理解しているかと問われると、ちょっと読み直してもいい?と思ってしまうのだ。
そして読み直しても充分理解できるかどうか、はなはだ心もとないのだ。
作中にちりばめられた、「文学的」といってもいい「符丁」の数々なら分かる。だいたい二重惑星という舞台からしてかなり暗示的だし。
ストーリーもわかった、少なくとも「分かったと思う」。
わざと曖昧に書かれている部分についての自分なりの解釈もできた。
けれども、何か読み落としているんじゃないかという感じが消えないのである。うかつに語ってしまうことが、とんでもない誤解や先入観を植え付けてしまうんじゃないかっていう、そんな感じ。
うーん、これじゃ紹介にならないなあ。
第一部である表題作は、一番ストレートに単独の物語として楽しめると思う。ある男の少年時代と出生の秘密。
第二部は、第一部に登場した民俗学者が収集した、この惑星に伝わる民話。
第三部は獄中の男の手記。
第二部、第三部と進んで行くに従って、第一部では語られなかった世界の形が、おぼろげにうきあがってくる。第一部にちりばめられた不要とも思える枝葉のエピソードが、ひとつひとつ意味を持ってくる。
この、「何かが立ち現れてくること」こそ、この本を読む最大の快感だと思う。
それは決定的に明かされることはない。ただ読者は断片からそれを推測できるだけだ。
そしてそんな曖昧さから生じる不安は、作品に一貫して流れる「アイデンティティ」というテーマとリンクする。
何と言うか、周到すぎて、緻密すぎて、やっぱり私が語るのはこの辺りが限界。
一つだけ付け加えておくと、個人的には、最終的な読後感がアゴタ・クリストフ
『悪童日記』三部作に似ているように感じた。いや、別に第一部が「兄弟の居る主人公の幼い頃の話」で始まるから、というだけではないと思うんだけど。
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