2005年10月11日

出産と子育て

「子どもを産まないと、子どもを育てないと女性として一人前とは言えない」みたいなことを言う人がいるけど。

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posted by けいりん at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月25日

昔の話(2)

 昔の話である。
 その頃僕は恋をしていた。

ていうかイマイチ「僕の話」じゃないんだけどね。
posted by けいりん at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月20日

昔の話

 昔の話である。
 その頃僕は恋をしていた。

昔掲示板でやってたアレですが今回はちょっとアダルティーかも
posted by けいりん at 15:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月03日

例えばこんなジレンマ

例えば、何かの弾みで太郎君と花子さんのカップルを含む数人の中で、チンコの大きさの話が話題にのぼってしまったりして、「前に温泉で観たんだけど泰雄のマジでかいんだよ」と誰かがいっているのを聞いて、つい花子さんが、「えー? 泰雄君はそんなにおっきくないよ。どっちかっていうと佑司君の方がおっきいとおもうけど」なんていってしまいそうになって慌てて口をつぐむとか、そういう場面は案外起こるところでは日常的に起こっているのではないかな、ふとそんなことを考えてしまいました。

あと、映画『ポルターガイスト』の中で、幽霊の出る家から家族で逃げ出そうと言うことになって、父親が落ち合う場所として国道ぞいのモーテルかなんかを指定すると、娘が「あ、そこ知ってる」といっちゃって父が「なんだって?!」と声を荒げる、って言うのがあったと思うんだけど、これと似たようなこと、カップル同士でも案外あるんじゃないですかね。ホテルに入って、「あ、ここ前にも来たよね」「え? オレ初めてだよ」とか。

そういうことって、つい口からでちゃうと本人にとっては悲劇、傍観者にとっては喜劇以外の何物でもないわけなんだけど、思いとどまった時、「言いたい、けど言えない」て感じで結構ジレンマではないでしょうか、なんて思ってみたり。続きを読む
posted by けいりん at 15:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月06日

ジェンダーフリーふたたび

うーん。続きを書く気はなかったんだが。
前の記事

例えば、「男の子用品は青、女の子用品は赤って決まってるの、おかしくない?」という疑問はもっともで、何となく親戚や親がそういう決めつけをしているのってなんだかなあと思うことは、僕にも当然ある。

だからといって、「そもそも色分けされた商品があるのはおかしい」というのは、なんつーか本末転倒なんだよな。

もちろん、たとえば黒いランドセルと赤いランドセル「だけ」が(最近は青とか茶色とかいろいろあるけど、主流はこの2色と思う、やはり)製造、販売されている背景には、無言の前提として「男子用/女子用」という決めつけがあるのは確かで、そこをつくのに意味がないわけじゃない。

しかし、その結果が「色分けの廃止」=「みんな同じ色」で本当にいいのか。

重要なのは、

1.男が赤、女が青いものを持っていても、それを「個性の問題」として割り切る態度が育つこと

2.多様な色からの選択の結果として商品の色を決定できること

この2点なんじゃないのか。

トイレのマークの色分けぐらいは、「見分けやすさ」に免じて見逃してもいいような気がするけど、まあ同一色にしてもそんなに困んないんじゃないかなという気もする。色違っても間違って入った経験のある僕としては、この「見分けやすさ」がそれほど決定的かつ重要な事柄とは思えないのね。

あともう一つ、男らしさ、女らしさが先天的なものだとすれば、その結果として「むいている職業、役割」がきまっているはずだ、と言う主張があって、なるほど前回の記事ではそれに対する有効な反論はしていないのだけれども。

結局これは「性差の個性差への埋没」によって解消される問題でしかないんだよね。たとえば神取忍と僕とどっちが格闘家に向いているかって言う話。現にある男より格闘家にむいた女がいて、それを目指したいと思ったとき、「女だから」と言う理由で「格闘家になろうとすること」を阻まれる理由があるかね?

まだまだ女性の多くが結婚退職したり、出産育児によって少なくとも休業したりするような現状で、「雇用機会均等」や「給与の平等」が正当かどうかというのはまた別の話。そのうちやるつもりだけどちょっとかかるかも。
posted by けいりん at 16:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月29日

恋とか愛とか

恋と愛がどう違うのかってことがよく言われるけど。

はっきりさせておかなければならないのは、「愛」も「恋」も、結局のところはとても抽象的な概念であり、あらゆる恣意的な解釈が、それぞれに対してなされ得るということだ。

たとえば、「恋は奪うもの、愛は与えるもの」といった単純なテーゼにしても、決して実体としての愛や恋そのものの分析結果ではない。もちろんだからといって「奪うものを恋と呼び、与えるものを愛と呼ぶ」のほうが正しいとまで言えるわけではないし、恋も愛も、抽象物とは言いながらそれを述べる人の経験から出ている場合は、直接体験の帰結とはいえるわけで、一概に否定できるものではない。しかし、これに対して例えば「愛は惜しみなく奪う」というテーゼを対置させたとき、しばしば「それは『本当の愛』ではない」という議論がなされるのは、やはりちょっと的を外しているのではないか。われわれが「恋」といい「愛」というとき、それはたかだか個人の心的状態や他者とのある種の関係性に名前を付けたものでしかない。決して個人や個人的関係をはなれたどこかに「本当の愛」があって、人がそれをなぞっているわけではない。まず最初に一定の状態、あるいは行動があり、「恋」や「愛」とは、漠然と、非常にゆるやかに、それを分類し、名付けたものにすぎないのだ。

ただし「名付け」というのは、完全に恣意的な行為に見えて実はそうではなく、個人と他者とのネットワークの中で、曖昧かつインタラクティブな形で行われているものだし、そこには一定の「ルール」らしきものが存在しているので、その限りにおいては、「恋」も「愛」も個人の思惑以前にある程度定義付けられている。しかし、いやだからこそ、個人がそれを完全に分析しようと言う試みは、必ずどこかに齟齬をきたすことになる。なぜなら、あらゆる概念がそうであるように、語の定義は本来ゆるやかな他者とのネットワーク上で行われるべきもので、それを個人が決めつけるのは「ルール違反」だから。さらに、「恋」や「愛」が、個人の感情の問題=完全に個人的な問題に見えて、実は、必ず対象としての他者を前提としていると言う意味でも、その実体めいた部分は個人の内にではなく、他者との関係の内にあるといえるのではないか。

「あなたが好きです」と人が言う時、その感情は既にその人個人のものではなく、他者の関与がなければ生まれ得なかったものなのだ。それが恋であるか愛であるかなどということも、やはり対象との関係のうちで答えを見つけだすしかないはずだ。思い悩み、決めつけ、結論を出す前に、対象との関係をどう形作っていくかということが問題だろう。もちろん、その指針を示す理念として、「理想の愛」の姿を持っているのは悪いことじゃないし、必要な場合もあると思う。しかしそれが絶対的な基準とならないことは大事なことで、というのも、対象との「間」にあるはずの、したがって関係が移ろい行く中で変わっていくものであるはずの「愛」に絶対的な基準を持つことは、不可能であるばかりか、有害ですらあるように思えるから。
posted by けいりん at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月23日

少なくとも恋愛に関して言えば

女ってたいてい男より漢だよなー、と思うことがある。
大して意味ないけどね。
posted by けいりん at 10:22| Comment(5) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年05月07日

ジェンダーフリー

最近「ジェンダーフリー」に対する風当たりが強いようなんだけど。

僕自身はジェンダーなんかクソだと思っている。
や、もちろん、僕自身にも、意識できたものもそうでないものも含めて、「社会的性差」は確かに存在するし、無意識にそれに沿った考え方や物言いをしてしまうことがあるのも事実。だけど、それは、「決して完全に消し去ることはできないけれども、常に意識的に乗り越えようとしてゆくべきもの」だと思っているし、だから「自分はどうなんだよ」といわれることを恐れず、堂々と断言できる。「ジェンダーなんてクソだ」と。

しかし。
一方で、「ジェンダーフリー」をうたった教育現場の取り組みの中には、ちょっと的を外しているな、と思うものもある。

具体例を挙げることはあえて避けるが、要点は二点だ。ジェンダーフリーは、人が性に関係なく、己の個性を発揮できることこそが重要なはずだ。はっきりいって、性差は全く存在しないわけではないと思う。ただ、ジェンダーバイアスが取り除かれるならば、先天的・不可避的な性差でさえも、単なる個性の一つとして、その他多くの「個性の違い」の中に埋没してしまうだろう。つまり「女だからおしとやか」ではなく、「おしとやかな人がいて、その人は女」というふうに。ところが、ジェンダーフリーを掲げて、この「個性差」そのものを無視するような試みがときどきある。それでは「無史できない差」としての性差は、反動も手伝ってかえって際立ってしまうのではないかと思うのだが。

もう一つの要点は、ジェンダー、セクシュアリティ、セックスの違いを明確にしないまの試みは、ある種の混乱をもたらさずにはおかない、ということ。もちろんこれら3つは密接に絡み合っていて、どれか一つだけを切り離して論じるのは不可能だ。しかし、だからこそ、ジェンダーフリーを目指す試みにおいては、あらかじめこれらの境界についてよく考えて自ら限界を設けるか、あるいはこれら全てについて熟慮する必要がある。簡単に言えばジェンダーフリーはフリーセックスではないし、子どものセクシュアリティ形成に影響を与えかねない試みは、ジェンダーフリーとは別の立場から考えてみる必要があると言うこと。

まあそんなわけで誤った試みによって僕が性差肯定派になる必要なんかは全然感じない。

「ジェンダーフリーは過激なフェミニストが作った用語」とおっしゃった人がいたらしいが、正直この言葉は何を言いたいのか意味不明である。僕はジェンダーとかジェンダーフリーとか言う用語の歴史についてはよく知らない。だからそれは本当に「過激なフェミニストがつくった用語」なのかもしれない。しかしだからそれがなんだと言うのか。そんなことをいったら近代的な「自由」や「平等」にしたって、かつては「過激な人文主義者」が唱えた概念に過ぎなかったはずだろうに。この発言には、「フェミニスト」と言う言葉につきまとう、それこそ「過激な」印象や、あるいは苦笑を呼ぶような印象、そういった正しい知識を伴わない印象を利用して、概念そのものをおとしめようという意図が感じられる。

断っておくけど、僕は別にフェミニズムを信奉していると言うわけではない。もちろんフェミニズムにもいろいろあって、その中には深く頷きたくなるものもあるし、そうでないものや反論を唱えたくなるものも含めて、フェミニズムは、僕自身や社会に根深く存在している病巣を白日の素に晒すためには非常に有効な装置だと思っている。けれどもどんなものであれ、「…イズム」を信奉するのはそれこそ僕の主義に反するのだ。

さて、それはそれとして。ジェンダーフリーを批判する人の中には、「性差は過激なフェミニストが言うような後天的なものではない」と主張する人がいる。たとえばテストステロンが男脳を作るとか、そういうやつね。先にも述べたように、僕自身はそれを全く否定していない。多分事実なんだろう。しかし、こういった根拠に基づきジェンダーフリーを批判する人は、多くの場合、科学的事実の誤認など問題にならないような決定的な過ちをおかしている。というのは、たとえば「テストステロンが男脳を作り、結果男は『男らしい』性格になる」という言葉は、ただ「そうなる」ということを記述したものに過ぎないのである。そこからは、倫理的な規定、「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」といった発言はでてきようがない。むしろ、それが100%全ての個体にあてはまる事実だとするならば、どんな育てられ方をしようと、男は男らしく、女は女らしくなるはずではないのか? そう思っている人が教育にジェンダーフリーが取り入れられた程度で何を慌てる必要があるのか? もし、後天的で恣意的な操作が、子どもの将来に好ましくない「歪み」を生じさせるというのであれば、同様に、科学的に立証された現実以上に、性差を固定化している可能性についても疑うべきだろう。そしてそれが好ましいか否かということは、もはや科学的事実でもなんでもなく、単なる価値観の問題なのである。

「古来の伝統」をもちだして「男らしさ、女らしさ」を称揚する人もいるが、もうこれはアホなんではないかと思う。そういう人は今すぐ言葉も文明も捨てて原始生活に戻りなさいね。まあ言葉以前に知性を捨ててしまったからそういうアホくさい発言をするのかもしれないけど。

男らしさ、女らしさを捨てることが家庭の崩壊につながるとか言ってる人。そんな脆い家庭しか築けなかったならとっと家族解散しなしい。これは夫婦別姓に反対する人にも言えることだけど。そんな貧しい人間関係はいったん清算してもっとまともな関係を誰かと築いた方がマシ。

僕は男が男らしくなるのも、女が女らしくなるのも、いけないなんてこれっぽっちも思っていない。そうすることに無理がなくてそうしたいならそうすればいい。もっともチンポの大きさと機能でしか自己確認ができないような「男らしさ」には問題があると思うけど、まあそれだって性犯罪に走るわけじゃなければ勝手にやってくれってなもんだ。ただ、同様に、男が男らしくなくなろうと、女が女らしくなくなろうと、それがいけないなんてこれっぽっちも思わないという、ただそれだけの話なのだ。
posted by けいりん at 15:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月19日

ガキはセックスしてはいけないか(終)

結論。
「汝の欲するところを行え。それすなわち法とならん」(アレイスター・クロウリー)

確かに僕は言った。
「自分は『ガキがセックス? とんでもない!』派だ」と。
それは今でも変わらない。

ただ、はっきりしておきたい。僕の書いたことは確かに一見道徳的に見えたり、保守的に見えたりしたかもしれない。だが、注意して読んでもらえば分かる通り、僕が唯一決定的だと思っているのは、「その行為が自分にとってどういう意味を持つのか」ということなのである。

前回話したように、自分の行為の結果を、そのリスクも含めて、100%予測できる人間なんかいない。また、これは前回、理想的な話しかしなかったことなんだけども、理想に反して、予想外の結果を完全に受け入れることのできる人間も、やはりほとんどいないと思う。大人であろうと、どんなにすばらしい人間であろうと、人は予想外の結果を避けることはできないし、その衝撃から逃れるには、ニューエイジの「サトリ」でも開くしかない。

だったら自分の行動を律する指針はなんなのか?
善意の行為から最悪の結果が生じることが避けられないとしたら?

それは、「自分」しかないのだ。

ただ、身勝手に行動すればいいのでもない。
一時の衝動に任せるのが正しいわけでもない。
ただ、道徳的なあれやこれ、友人知人先輩親族のアドバイス、マスコミが伝える流行傾向常識、そういうものを完全に無視しろとは言わないが、いやむしろ、一度は一切合切を「飲み込んで」しまうことも大事だとは思うのだが、それとは別に、それらから一旦身を離して、深く、静かに、自分の中に耳をすまし、目を見張ること、全身を感じ、心の隅々を探り、自分の欲求を知ろうとすること、「よく考える」のではなく「よく知る」こと、そういうことに基づいた行為だけが、後悔と無縁の行動の指針を、人に与えてくれるのではないだろうか。決意や思考に頼るだけでは、人は結局自分の一部を置き去りにしたままで終わるのではないだろうか。そして自分の、一番深い欲求とは、思考や意志、感情、身体の状態、主義主張、そういった全てが一体である時にだけ、生じるものではないだろうか。

抽象的すぎるかもしれない。
「よくわかんねーよ」という人には、もう一度繰り返すしかない「やりたいようにやれ」と。あなたの「やりたい」ことがなんなのか、そんなこと、僕に教えられるわけがない。学校の先生も親も友達も雑誌もみのさんも星占いも教祖サマもコックリさんも教えてくれない。だってそれはあなたの問題なんだから。あなた自身が、深く、静かに、自分のことをつかもうとする行為、その果てにしか、あなたのやりたいことなんか決して見えてこない。そして、念のため繰り返すが、突出した欲求は、いつだって、あなたの他の部分を見失わせているはずなのだ。

だから、僕の「ガキがセックス? とんでもない!」という言葉は、決して「ガキ」をとめようとするものではない。第一だとしたら、こんな効果のない言い方なんかしない。
これは挑発で、挑戦なのだ。
「『やりてぇ!』っていうけど、オマエ、自分で自分の『やりたいこと』を知ってると思ってるわけ? けっ、百年早ぇよ」ということだ。

そして、「ガキ」と言う言葉が、単に年若い人をさす人ではないことは、ここまでくれば既に明らかだと思う。

多分、「人の振り見て云々」と言う以上の深い意味で、僕ら大人は、子どもの「「とんでもない!」と思える行為」について、深く考えてみる必要があるのではないか。僕らがしてるセックスがどんなものなのか。そこに無理はないのか。そこに忘れられたものはないのか。

そういう問いかけの果てに「大人」と「ガキ」の境界は消滅し、ただ「自分」と「他者」が立ち現れる。自分は他者と問題の一部を共有し、しかし自らの内にのみその答えを探らねばならない。そう言う場所で、初めて、人は思うだろう。

「汝の欲するところを行え。それすなわち法とならん」

posted by けいりん at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年03月18日

ガキはセックスしてはいけないか(3)

さて、僕は前回、「男の子の性欲には『おさえきれない』と表現せざるを得ないほど激しいものがある」ことを、経験上肯定した。しかしそれが本当に「おさえきれない」ものであるならば、(たとえそれが直接性犯罪に結びつくものではないとしても)社会生活を送ることそのものが難しくなってしまう。結局多くの男の子たちは、なんだかんだいいながらも、右手や左手やこんにゃくや道具によって、煮えたぎる欲求を処理しながら、昼間は何食わぬ顔で女の子と話をしているのだろうと思われる。だがしかし、男の子にあっても性交の初体験年齢が低下しているのも確かなことらしい。そういや昔僕の隣人だった高卒の男の子も、かなりお盛んだったっけ。まあそれは別にどうでもいいんだけど、今回はまず、男の子に関して、「あまり若い内にセックスしてしまうのってどうなの?」というハナシをしようと思う。

まず最初に断っておかなければならないのは、僕は決して、若い男の子の性欲に関して、「スポーツで発散しなさい」とか、「右手で十分」とか、「その若い情熱をもっと社会のために役立てるんだ!」とか、そういう、なんつーかいわば「古典的」な事をいうつもりは、全く、ないということだ。むしろ僕は、そのように「性欲の形」そのものが規定されてしまうよりは、バンバン好きな女の子とセックスした方がいいとさえ思っている。これは以前、女の子について書いたこととも通じるのだけれど、性欲が不必要に「恥ずべきもの」「よくないもの」とされることは、性欲と性行動のあり方を非常に狭い範囲に固着し、それによって暴発の危険を高めてしまうことにしかならないのではないかと思う。「性欲を理性で押さえるのが人間」という図式にも、正直ウンザリしている。根本的な問題は、そのような二項対立によってではなく、性欲そのものが社会性を伴うことによって解決されるはずで、それは可能なことであると、僕は信じている。

だが、しかし、やはり溢れる情熱のままに恋人を押し倒すのは、もう少し、待った方がいいのではないか、と僕は思うのだ。いつまで? それは、「恋人とセックスすることに疑問を持てるようになるまで」だ。

若者と一口にいってもいろいろな人がいるし、中にはこれから言うことにあてはまらない人もいるだろうとは思う。だからこそ、それぞれがじっくりと考えてほしいのだけれども、若い男の子の思考には、ある種の短絡さがしばしばみられるのではないだろうか。それはけっして、「十分に思考を働かせていない」ということではない。しかし、「とりあえずの結論を、最終的な結論として固定したがる傾向」みたいなものが、多くの若い男の子に見られるような気がする。

そのことは、たとえば「愛」とか「セックス」とか「結婚」とか「妊娠」とか、直面していたり何パーセントかの確率で将来起こりうる事柄について考えていても、同様であるように思う。例えば「愛しているから」という理由を、なんの疑問もなく受け入れ、押し通してしまったり、「今どき恋人と2人きりで相手もオッケーなのにセックスしないって変だろ」と理屈付けたり、子どもができたら結婚する、オレはそれぐらいこいつのことを愛している! だからセックスしてもいいのだ」とか正当化したり。

ところで、僕は思うのだけれども、あらゆる事柄は、結局、起こってみるまでは予想もつかないものだ。それゆえ、「あらかじめ覚悟せよ」というのは、多くのことについて、実は非常に酷な要求である。あらゆる場面における、「社会的常識に基づくリスク予測の義務」の押しつけは、その意味で、単に経験量を狭める役にしか立っていないし、そのことは結局、経験に基づいてリスクを上手に回避できるようになることから、人を遠ざけているのではないか。しかしそれならば、人はあらゆることを一度は経験してみるべきなのだろうか。極論すれば、誰もが一度は犯罪を犯して投獄されなければならないのだろうか。

そんなことはないだろう。人が経験から学やり方は、そんな直接的なものばかりではないからだ。人は複数の経験を、(あくまで無意識に)分析したり、組み替えたり、総合したりすることで、未経験のことがらに対するリスク予測を、ある程度可能にすることができる。だがそれはやはり完全なものではない。多少リスク回避やリスクの受け入れができるようになったところで、相変わらず多くの新しい経験は、「予想もつかない出来事」として目の前に立ち現れる。

それでも経験量が重要だと言いうるのは、多数の経験がもたらすものは、リスク予測能力の向上だけではないからだ。人は予測できなかった新しい経験を重ねる時、自分の能力の限界や可能性に気付き、さらには、あらかじめ予測できなかったものも含めて、自分の選択の結果を「自分の責任」として受け入れる能力を、少しずつ発達させているのではないか。

僕が若い男の子たちに「セックスはもうちょっと待ってもいいんじゃない?」と言いたくなるのは、まさにこの点からなのだ。というのも、セックスとは、結局のところ、自分だけではなく相手にも一定のリスクを負わせる行為であり、それゆえ、上記のような意味で「責任」というものを飲み込めるまでは、差しひかえるべきなのではないかと思えるのである。そしてそのためには、セックスほど相手に負わせるリスクが高くない場面で、多くの経験を積んでおくことが大事だろうってことだ。

もう一つ、「相手がある」と言うこと以上に重要なこととして、「自分の魂の状態に留意すること」をあげておきたい。「魂」等と聞くと何やら宗教的な、あるいは悪しき精神主義的な臭いが感じられるかもしれないが、僕がこの言葉で言いたいのは、「精神全体の整合性」とでもいうべきものだ。突出した欲望や衝動は、しばしばそれとは別の、深いところに確かに存在している他の欲求を見失わせる。自分の中に、どんな欲求がどんな割合で存在しているのか、それを全て明晰に知ることはできないまでも、ある程度、自分の内部にいわば「耳を傾ける」ことができるようになって、人は初めて自分の欲求に対する最も適切な行動の仕方を知ることができる。というのも、しばしば「自然な欲求」として許容されがちな男の子の性欲でさえ、実は社会的な傾向によって歪められ、範囲を狭められ、ある種の視野狭窄がもたらされていることがほとんどだからだ。「顔射」といわれるプレイを望む男が一部に増えているという。それはそう言ったプレイがアダルトビデオ等によって広く人口に膾炙するまでは、あり得なかった現象だ。たとえ以前から一部にそのようなプレイを好み、実践している人がいたとしても、その増加と言う現象はそのプレイを望むことを「ありうる自然な欲求」とだけ片付けることの不可能性を示唆しているように思う。このことは、人の性行動が、触れてきた文化の型によって決定付けられることを証拠付けているのではないか。そしてこういった限定された場面における「欲求の型付け」は、様々な欲求、意志、思考の構造体としての、いやむしろ有機体としての「自ら」のあり方を、も変えてしまうことになる。その時、静かに耳を傾ければ知ることができたはずのいくつかの欲求や意志は、無視され、歪められる。このことは見落とされがちなことだが、「ふつうの人」が時に、極端な悪意としか見えないものに引きずられてしまうという事象について考えるとき、決定的に重要なことだ。といってもフロイト的な分析にさして意味があるとも思えないんだけどね。こう言うことって最終的には「TAKE CARE OF YOURSELF」というしかないことなのだ。そして、そういう観点から、僕は欲求や思考が固着しがちな若いうちは、ちょっと待ってみてもいいんじゃないかなあと思うのだ。

こういった「セックスを差しひかえるべき理由」に関して、本当に大人たちがそれを克服しているのかといえば、実はそんなことは全然ないのである。いくつになっても人は予期せぬ結果に動揺し、他人によけいなリスクを背負わせ、一時の衝動に身を委ねることをやめられない。ただ、それだからこそ、多くの「責任ある行動を取れる」人たちは、判断に迷い、正しい選択をしようとし、時には後悔をしながらも、決断をするということの重荷を受け入れるのだ。もちろん、考え過ぎたって意味はない。けれども、自分の体と心、意志、そういったものにきちんと耳を傾けることができれば、ただ「考える」と言う意味で「迷う」ことなく、しかし結論を絶対的なものと思い定める事なしに、決断を下すことは充分可能なことだ。

だから「いいや、やっちゃえ!」と思う前に、ちょっと待って欲しいのだ。「いいや」のあとででもいい、「でもそれは本当かな?」 と思えること。責任ある決断の第一歩はそこから始まる。

ここまで、女の子のことについてはあまり触れずにきたけど、実は女の子の場合も事情はあまり変わらない。ただ注意を促しておきたいのは、「責め」とか「受け」とかそういうこととはあまり関係ないながらも、前回話したような事情によって、「男の子が求め、女の子が承諾する」という場面が圧倒的に多いってこと。女の子は古くは「大事なものをあげる」感覚で恋人に処女を「捧げて」きたし、今どきはまあそこまでじゃないにせよ、「あなたが求め、私が受け入れたんだ」という風な感じ方はまだ残ってるんじゃないかな? 気になるのは「相手が求めている」という現象の背後に「愛されているという実感」をみたがる女の子が多いってこと。

問題は二つある。まず、これって実は全然現実にはそぐわないというのが一つ。男の子はしばしば性欲だけで女の子を押し倒すし、そうでない場合についても、男の子自身が思い込んでいるほどには「愛して」なんかいない場合が多いのだ、実は。このへんのことは上記の魂云々って所とかを参考にしてほしい。

もう一つ、より重要なのは、誰かにどう思われているかということが自分の行動を決めるということに、どうして違和感を持たずにいられるのかってこと。男の子について書いたのと同じ意味で、女の子も責任を持ち、かつ自分の魂に留意できるようになるためには、この点が大きなネックになっていると思う。つまり、行動の主導権を、そのような受け身な形でしかとれないようでは、自己責任の感覚を養うのに十分な経験が持てないし、自分の内側に耳を傾ける訓練の機会も失ってしまうということだ。

もちろん、反論もあるだろう。「相手を受け入れる」というのも一つの決断であり、それにともなって起こる出来事を「自分の行動の結果」と考えることは、確かに十分に可能なことだ。しかし「愛されている実感」を得るために「体を許す」という形の中には、どうにも主体性が感じられないのだ。まあそれも充分「耳を傾けて」るし責任感ももてるというのならこれ以上いうことはないんだけど、例えば相手に押しきられる形で「生で」やることになりそうなんてときには、もう一度、じっくり考えるべきだと思う。妊娠のことだけでなく、ビョーキについても男から女への感染の方がしやすいし、そういう意味ではリスクが高い行為なのだ、女の子にとってのセックスって。

さて、特に男の子の話についてはわりとリッパ過ぎる感のある今回だけど、もちろんこんな理想論で話が終わるわけもないのであって、次回はじゃあ現実にはどうなの?って事を話して行きたいと思う。
posted by けいりん at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年01月25日

ガキはセックスしてはいけないか(2)

予告した本題に入る前の重要な前置き。男にせよ、女にせよ、また子供にせよ大人にせよ、性欲ってヤツは一体全体どこまで「自然な」ものなんだろう。

いろいろな資料に当たってみると、実際のところは「わからない」と言うほかないようだ。というのは、あらゆる調査、あらゆる実験的事例は、その判定条件自体に、調査者、事例収集者の性欲観を映しているように見えるからだ。言い換えるならこの問題に関しては誰もが恣意的であらざるを得ない。

まあしかし、僕自身は、性欲に関して、少なくとも数多くの言説が、例えばフェミニズムで言われるように、「自然なものではなく、文化的に作られたもの」ではないかと考えている。典型的なのは「女は受け、男は責め」というヤツで、単なる物理的な見かけから、性行動一般の形が決まると考える人々はホントにおめでたいと思う。「突っ込まれるから受け身」だと! 彼等は「アグレッシブに相手のペニスを自分の膣に招き入れる女性」といった事象について想像すらできないらしい。僕がそう言う女性とお手合わせしたことがあるかどうかはまあ一応ぼかしておくけど(笑)、少なくとも想像はできる、とだけ言っておけば十分だろう。

もちろん、破瓜の、そして人によってはその後慣れるまでは続くという性交時の痛みや、性交によってオルガスムス体験をえることが男に比べて女のほうが難しいということ(この辺はそのうち独立した話として書いてみたいけど今のとこまとまるかどうか未定)などの影響で、傾向としてセックスにおいて受け身な女性が多いということは起こりうるかもしれない。しかし、たとえこれらの「原因」が統計的に優位なものだとしても、そこから「結果」に至る過程は、せいぜい「その心理過程は想像が付く」といったレベルのもので、多くの女性がそれと同じ心理過程をたどるという根拠は何もない。また「結果」自体の優位な統計的事実を確認できたとしても、それは所詮「統計的事実」でしかなく、なんらの必然性を持ったものではない(ついでに言っておけば、しばしば行われるような「だから女は受け身であるべきだ」等と言う倫理的判断への摺り替えに至っては、全くのところアホらしいとしか言いようがない)。これらの点を頭に入れずに単純に「男は攻め、女は受け」を「一般的法則」として採用するのはちょっと軽率なんじゃないかな。第一、声高にこういった「法則」めいたものを主張したがる人に限って、自説の根拠となる資料に当たっておらず、当然統計的な根拠すら知らないというところは面白い。まあ僕もそういう点じゃ似たようなもんではあるんだけど、すくなくとも慎重ではあるように気をつけているつもり。

さて、これと似たような言われ方をする言葉に、「男の子は性欲をガマンできない」ってのがある。僕にいわせれば、これまたまあなんとも偏った言い方だなあと思うのである。もちろん僕も男の子(笑)であるから、時によって押さえきれなくなる激しい昂り(爆)とか、どうにも制御が効かなくなるカラダの一部の暴走(核爆)とか、そういうものにはそれなりに心当たりがあるし、その全てが社会的な条件付けとか、どれに類したものによるのだと主張できるかどうかは、正直なところ分からない。根拠のない個人的な勘みたいなものに従うなら、確かにそこには「ガマンできない」と言わざるを得ないほどのエネルギーはあるけれども、この言葉が「法則」として通用してしまうのはやはり間違っているのではないかと言う気がする。というのは、「男の子が性欲をガマンできない」という言い方は、ある種「男の子の性欲の方向性」すら潜在的に指定しているように思えるからだ。それはまさに「ガマンできないもの」としてであり、その結果として「放っておくとどこに吹き出すかわからないもの」という意味も含まれている。つまりこの言葉が「法則」としてまかり通ることが、男の子の性欲の「ガマンできなさ」を拡大再生産しているのではないか。
もう一つ、はっきりとは言われていないけれど、こういった言葉のむしろ前提として、「男の子の性欲=ペニスへの刺激(究極的には射精)」という限定があることも見逃してはならないことであると思う。このことと「男の子は性欲をガマンできない」をリンクさせるならば、「男の子は、ペニスへの刺激を受け、射精することなしには耐えられない」ってことになるのだけれど、これってどうなんだろう。僕はへテロセクシャルだし、SとかMとかそういうややこしいものにもあまり興味がないし、「差別的」と言われる危険をあえておかすならば、「いたってノーマルな」性生活を送ってきた方だと思う。自慢じゃないがオナニーだって人並みにした。けれども、にもかかわらず、「男の子の性欲」には、そんな小さな範囲には限定されないものがあり、かつその後の発達にも、より多くの可能性があるんじゃないかと言う気がするのだ。言い換えるならば、男の子は、「性欲」を「ガマンできない射精への欲求」に限定してしまうことで、その後の性欲の形も、そのことによって非常に狭められてしまっているのではないかと思うのだ。

こんなことを前提にしつつ、今度こそ「性交の準備精神編」てな話を。
posted by けいりん at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年01月21日

ガキはセックスしてはいけないか(1)

セックスの話なんである。

昨今、ますます性交初体験の低年齢化が進んでいるそうな。
これに対して世の中では、勝手にさせとけだのやめさせろだのコンドームつけさせろだのいろいろなことを騒ぎ立てたり、我関せずと言う顔だったり、あるいは自分が正しいセックスを教えてやろうと言う気なのかどうか知らんが金や権力や大人の色気やらでガキとまぐわおうとしたり、まあいろいろなんである。

ここで取り上げたいのは主に女の子の話である。まずハッキリ言っておきたいのだけど、僕は、ガキがガキであるからというだけでセックスをするべきでないとは考えていないし、セックスすること自体が、ガキにとって何らかの悪い影響を与えると言う風には、必ずしも考えていない。それだけを取り出すなら、「どんどんおやんなさい」といってやりたいぐらいだ。だいたい女性は男性に比べて、最近まであまりにも性から遠ざかることを強いられ、結果的に性を搾取されてきたのだ。それを考えたら女の子が性的な快楽に対して「自分のもの」という実感を持てるようになるのはいいことだし、そう言う意味での積極性は今後もっと持てるようになっていい。

だが、にもかかわらず、僕は「ガキがセックス?とんでもない!」派だったりする。なぜか。

それは、ガキはまだ体の準備ができていないからだ。これは第二次性徴以前の子供はもちろんだけど、第二次性徴を迎えて間もない人々にもあてはまる。

僕は、そして現代人の多くはそうだと思うけれど、セックスが子孫をつくる「ための」行為だとは思っていない。そのために必要不可欠の行為ではあり、また望むと望まざるに関わらず子供という結果がついてくる行為ではあるが、「避妊」という行為に代表されるように、文化的、精神的発達によって、人間にとってのセックスは、単に「生殖」には収まらないものとなっているのではないか。僕が基本的には「やりたきゃやれば」という立場なのも、このへんを重視しているからだ。

だが、セックスが肉体の行為であり、第二次性徴が肉体の現象である以上、セックスと生殖を完全に切り離して考えることは、やはり間違いなのだ、と思うのだ。

だからといって、僕は「子供を持つことが経済的に難しいガキがセックスをするべきではない」と言いたいわけではない。これはまことに正論だとは思うけれども、「子供ができなきゃいいんだろう」という反論に対しては、根本的には有効ではないと思う。たとえ100%確実な避妊が存在しないとしても、世の中のほとんどの事象は「100%でないものを100%に限りなく近付ける」以上のことはできないわけで、そう言ったことも考えた時、「事実上ほぼ100%の避妊」と認めざるを得ないケースはあるのではないかと思うのだ。

だが、人間の肉体が、そもそも生殖を前提として第二次性徴を迎え、セックスが可能になるのだとするならば、たとえ妊娠の可能性がないとしても、妊娠・出産の準備ができることすなわちセックスの準備が整ったと言っていいのではないかと思う。この視点から見るとき、18歳未満の女性の出産に伴う危険(具体的な数値が見つからないのが惜しいのだけど。下の方の「早い出産、遅い出産の危険度」の部分参照)は、見逃してはならないことではないかと思うのである。

誤解のないように言っておくが、これは先天性の病気や後天的な病気、事故などで、「あらかじめ(第二次性徴以前から)妊娠の可能性がない女性」までもセックスをすることから遠ざけるものではない。よく読んでもらえば分かるように、僕は妊娠の可能性そのものとセックスをすることの是非を結び付けているのではなく、セックスをすると言う能力が、生物としての人間の肉体において、そもそも妊娠・出産を前提として形成されたものだったのではないかと言うことを言っているのだ。今、現に妊娠が可能かどうかと言うことは、全く別の話である。

まあ我ながら説得力に欠ける論理ではあると思うんだけど、実際「セックスの準備」って第二次性徴だけじゃない気はするんだよね。
それを「精神的な成熟」にもとめるのは曖昧過ぎる上にあまりにも精神主義的だし、だいたいそんなこといって「成熟した」大人がどれくらいいるよ、てな気分にならざるを得なかったりもするわけだけど、まあ男の子の場合なんかには確かに「精神的成熟」から考えてみるべきところは大きいような気がする。次回は、女の子の場合も含めて、「セックスをするための精神的成熟」について。
posted by けいりん at 16:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋愛、性、性差 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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